山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

宵々の夢のたましひ足高く‥‥

2007-07-16 23:37:41 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 災害列島

連休を直撃した台風4号は昨日のうちに列島を去ったのに、今夕から断続的に激しい雨が降り続いている。
午前10時過ぎ発生した新潟の中越沖を震源とした地震は、柏崎市を中心に震度6強を記録、各地の被害報道が終日続く。
3年前に震度7を記録し、甚大な被害をもたらした中越地震があった地域だけに、付近住民に与える衝撃は計り知れないだろう。
地震直後、柏崎刈羽原子力発電所では変圧器に火災が発生、2時間余りで鎮火。幸い今のところ放射能漏れの心配はない模様だが、7号機まである原子炉はすべて稼働停止、今後慎重なチェックが要される。
雨はなお強く音たてて降り続いている。
この激しい雨が、明日は被災地一帯を襲うことになりそうだ。
ライフラインの復旧はまだめどが立っていない。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-71>
 いつはりの限りをいつと知らぬこそしひて待つ間のたのみなりけり  二条為定

大納言為定集、恋、待恋。
邦雄曰く、騙されているのかも知れぬ。契る言葉も、一々疑っていたら限りがない。ただそれがどの程度、いつまでと知らぬこと、知りようのないことこそ唯一の救いであろう。愛する者の心弱さ、恃めぬ愛に縋ろうとする者のあはれを、醒めた言葉で歌いきった。評論の一節か箴言の類を聯想するような曲のない調べながら、それもまた清々しい、と。


 宵々の夢のたましひ足高く歩かで待たむ訪ひに来よ  小大君

小大君集。
邦雄曰く、毎夜、訪れもせぬ人を待ち侘び、せめて夢にでもと、魂は足まめに出向いていたが、それはふっつり止めよう。じっと待機しているから、精々来てくれることだと歌う。諷刺と諧謔にかけては王朝女流中の白眉。品下らぬ程度に辛みのきいたこの種の歌、他に求め得べくもなくまことに貴重である。第二・三句無類の詞、と。


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かはれただ別るる道の野辺の露‥‥

2007-07-15 18:07:12 | 文化・芸術
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-表象の森- 太田省吾の死

「小町風伝」や「水の駅」など、非常に緩いテンポで、あるいは沈黙の舞台で、演劇の常識を転倒させ、ならばこそ比類のない劇的空間を現出せしめた演出家・太田省吾の訃報が14日の朝刊で報じられていた。
肺ガンで入院中、肺炎を併発しての急死だったという。1939年生れ、まだ67歳という早すぎる死は惜しまれてあまりある。
私は一度きりだが芦屋のルナホールで彼の舞台を観たことがある筈だが、それが「小町風伝」だったのか沈黙劇三部作の「地の駅」だったのか、記憶が混濁してはっきりしない。それでググってみたのだが、太田省吾の個人サイトにあるプロフィールによれば、1982(S57)年に大阪公演としてルナホールで「小町風伝」を上演したとあるから、おそらくその機会だったのだろう。
その頃ならば、私の身体表現の手法もすでに数年前から即興を主体とし、しかもその動きを時間の引き延ばし-緩やかなテンポにすることで、一瞬々々の細部の生動化を図ろうとしてきたから、彼の発想の切口にも、衝撃を受けるというものではなかったのだが、ただ演劇と舞踊の、その様式の差が結果においてずいぶんと距離をもたせるものだと確認させられたような舞台であったかと記憶する。
早稲田小劇場を率いた鈴木忠志と同年ながら、やや遅れて70年後半に注目を浴びるようになった彼は、鈴木の拓いてみせた方法に、どうしても対抗的発想に立たざるを得なかったのでないだろうか、と私には思われ、鈴木忠志の劇世界と太田省吾のそれとを対称性においてみるというのが、私のスタンスであったと、彼の死を聞いた今、ふりかえって再認させられている。
劇評家の扇田昭彦が劇作家や演出家たちとの対談記をまとめた「劇談」(小学館)という書があるが、
このなかで太田は「物は晴れた日より、曇った日の方がよく見える」と彼のエッセイで言っていたと紹介されているが、この発想が、演技者の行為というものを、極端に緩いテンポにしてみせることで、却ってその生を、生の細部をまざまざと照り返すという、転倒させた方法論を生み出させたのだろう。
この対談のなかで、もうひとつ面白い話は「蛸の足」論である。嘗てジャン・コクトーがサティの音楽を、まるで蛸の足のように観客を絡め取ろうとするのがサティ以前の近代音楽で、現代の音楽であるサティは蛸の足的音楽ではない、とコクトーはそう捉えた。太田もまたコクトーのサティ解釈に倣い、蛸の足的演劇から、どこまでも遠く逃れようとしてきた、というわけである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-70>
 かはれただ別るる道の野辺の露いのちに向かふものは思はじ  藤原定家

六百番歌合、恋、別恋。
邦雄曰く、華やかな技法の彩は見せず、直叙法で、圧倒するような激しい調べである。この百首でも稀な、例外的な構成で、殊に珍しい倒置命令形の初句切れに、否定形決意の結句の照応は、侵すべからざるものを感じさせる。右方人の難陳「詞続かず」、すなわち句切れ頻りの意。俊成は右、経家の凡作を負とした。この歌いずれ勅撰集にも採られていない、と。


 あひ見ても千々に砕くる魂のおぼつかなさを思ひおこせよ  藤原元真

元真集。
邦雄曰く、自分自身に向かって静かに説き聞かせるような諄々たる調べは、時代を超えて読者の胸に沁むものあり。「たましひのおぼつかなさ」とは、類を絶した修辞として記憶に値しよう。恋がすべての人を初心に帰らせる、この悲しさ。逢わねば死ぬ思い、とはいえ、逢えば逢うで明日の愛の行方を思い煩う。真理に隠れた主題は永遠に強い一つの好例であろう、と。


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柞原かつ散りそめし言の葉に‥‥

2007-07-14 23:37:12 | 文化・芸術
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-四方のたより- 劇と小説と琵琶と

一昨日(12日の午後は関西を代表するヴェテラン女優河東けいさんに案内を享けて「セールスマンの死」を吹田のメイシアターまで出かけて観劇。
昨夜(13日)は毎年恒例となった「琵琶五人の会」を文楽劇場へと聴きに行った。
阪急吹田には地下鉄を乗り継ぐが、その往き還りに読みかけたのが水村美苗の「本格小説」。日頃なかなか小説を読まない私だが、時には興がのって一気に読み継いでしまうこともある。文庫にして上下巻合わせ1140頁ほどか、とうとう琵琶の会に出かける前に読み切ってしまったが、その間寝食以外はなにもしなかったに等しい。


どうやら寡作の人であるらしいこの作者については、先に「続明暗」を読んでいたのだが、どうやら代表作と目されるこの長編を超え出て次回作を期待するには、おそらく大変な準備と慮外の果報に恵まれないとあり得ないかも知れないと思われるほどに充実した内容ではあった。ただいくら読み進んでみても、どこまでもつきまとったのは、この小説がなにゆえ「本格小説」などとタイトルされたものか、その事大な名付けにおける作者自身の嗜好というか趣味というか、もっといえば小説に対する作者自身の自意識というか、そういう以外にどうみても描かれた小説世界と切り結ぶべきものをなんら感じさせぬ、その異和が不満といえば不満であった。
小説とは直接関係ないが、この作者の夫君が、「貨幣論」や「二十一世紀の資本主義論」を著し、先頃紫綬褒章を受賞したという経済学者の岩井克人だったとはこれまでまったく気がつかなかったが、この事実や、彼女自身が12歳より在米生活を送り、イェール大学の仏文博士課程卒業という経歴とを併せて思われることは、此方の勝手な推量にすぎないけれど、先述したように作家としての彼女は今後もずいぶんと寡作の人であろうし、この長編を凌駕するような新作を生み出すことは至難の技となるだろう。


アーサー・ミラー不朽の名作「セールスマンの死」は1949年の発表だから、現代戯曲の古典といってもよい存在だ。当時の演出はなんとエリア・カザンである。彼はこの戯曲と並び称されるテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」もこの2年前に演出している。
劇団大阪の熊本一が演出し、田畑猛雄と河東けいが主役夫婦を演じるこの舞台は、同じ陣容で3年前の1月に上演され、その時の観劇談は初期のブログにも掲載しているが、時を隔てて観てみれば、やはり相応の感触の違いはあった。
その違いを一言でいえば、ディテールの一つ一つ、その時々の台詞の言葉が、客席にわかりやすくよく届いていたと思われるということ。原作と照らし合わせたわけではないので断定はできないが、かなり刈り込んでテキスト・レジーをしているのではないか。60年も隔てているとはいえ現代の劇である。それがアクチュアリティーをもって今の日本の観客に伝えるにはどうあるべきか、この点に演出はずいぶんと腐心したにちがいない。3年前の舞台に比べればディテールの伝わりやすさにおいて数段の進歩があったといえるだろう。ただ、私などの嗜好からいえば、そのディテールの一つ一つ、台詞の一つ一つが、妙に切なく響きすぎるというか、濡れそぼって胸に堪えすぎるのが、心理的に少々きついのである。正攻法でストレートに、こんなにいちいち胸に堪えていては、延々と積み上げられた最期のクライマックスの悲劇が、どうしても幾分かは減殺されてしまう、という危険もあるのではないか。余剰というか遊びというか、そういう視点からもっと工夫をして貰いたい、そんな思いを残した舞台であった。


そして「琵琶五人の会」、
この会では幼な児を連れての鑑賞ゆえ、時間に遅れて聴き逃した演目もあり、あまり語る資格はないのだが、聴いた限りではやや低調気味であったかと思う。
もちろん、奥村旭翠の安定した達者ぶりは健在だが、気にかかった点を挙げれば、まず中野淀水の些か主情に寄りかかり過ぎたとみえる語りと調子の取りようだ。この人の声質と今の工夫のあり方が、どちらかといえば相生合わず、互に裏切り合っているというのが私の見立てで、熟達の工夫の方向を軌道修正すべきだと思われる。
加藤司水の場合、語りと奏法の、それぞれにおける熟練の乖離はいよいよ判然として、ちょっと始末に負えないところまできているという感がある。ひとり自ら語りかつ奏でるのが琵琶の宿命ならば、一方のみに長じても意味をなさないわけで、彼の場合、「歌うな、語れ」の第一歩から出直すくらいの気構えを要するだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-69>
 柞原かつ散りそめし言の葉にたれか生田の小野の秋風  宗良親王

李花集、恋、いかなることにか洩れけむ人の恨み侍りしかば。
柞(ははそ)-ナラ類やクヌギの古称。
邦雄曰く、柞の葉のようやく散り初めた晩秋の野と、不用意にも、言葉を散らし、人の噂に立つ原因を作った男とが二重写しになる。誰か行く、その生田の森の秋風とは、いずれ飽きがくることの予言でもあろうか。何か不安な、心中を冷たい風の吹き過ぎるような歌である。李花集には題詠の恋歌も数多見えるが、贈答と思われるこの作、心を引く節がある、と。


 露しげき野上の里の仮枕しをれて出づる袖の別れ路  冷泉為秀

新拾遺集、恋三、旅恋を。
生年未詳-応安5(1372)年、御子左家冷泉為相の子、定家からは曾孫にあたる。風雅集初出、勅撰集に26首。
邦雄曰く、古代以来の日本のジプシー、秀れた芸能集団ゆかりの美濃の野上はたびたび恋歌に登場した。「白砂の袖に別れに露落ちて」と定家が歌った秋の朝の後朝が、しかも旅のさなかであれば、歌の背後には傀儡女の歌う今様の一節さへ響くようだ。「露=しをれて=袖」「仮枕=別れ路」と縁語の脈絡も巧みに、冷泉家二世の面目はこの一首にもあきらか、と。


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思ひ出でよ野中の水の草隠れ‥‥

2007-07-13 11:48:10 | 文化・芸術
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写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「阿那律の柵」

-表象の森- 釈迦十大弟子の四、阿那律

仏教では諸々の超能力のなかでとくに6つの神通力-六神通-を挙げる。
一に、神足通-空間を自由自在に移動する能力、いわゆる神出鬼没という類
二に、天眼通-未来や運命に対する予知能力
三に、天耳通-遙か遠方の音をも聞き分ける聴力、千里眼ならぬ千里耳である
四に、他心通-他者の内面、心を読み取る能力
五に、宿命通-自他の前世、過去世を知る能力
六に、漏尽通-あまねく余さず、真理を悟りうる能力


阿那律は盲目にして天眼第一となり。
彼は釈迦族の出身で釈尊の従弟ともいわれるが、彼の出家の際には釈迦族の有為の者7人がともに出家、釈尊に帰依している。
そのなかには十大弟子に数えられる阿難陀と優波離がおり、また後に釈尊に叛逆した提婆達多も含まれていたとされる。
彼は生来の盲目ではなかった。まだ出家してまもない頃、迂闊にも説法の席で居眠りをして叱責を受けてしまったが、これを恥じ入り、こののち不眠不休の誓いを立て、定坐不臥の行に没頭しつづけるあまり、ついに盲目になってしまったのである。
両眼の犠牲をもって心眼を獲たということであろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-68>
 思ひ出でよ野中の水の草隠れもと澄むほどの影は見ずとも  二条為重

新後拾遺集、恋四、題知らず。
正中2(1325)年-至徳2(1385)年、俊成・定家の御子左家二条為世の庶流為冬の子。足利義満の歌道師範となり、新後拾遺集の選者に。為重の死後、二条家は後継者無く急速に衰退。新千載集初出、勅撰集に36首。
邦雄曰く、昔、播麿の印南野にあった清水は、もと冷たく澄み後に温かく濁ったと伝え、これに因み、もと連れ添うた女の意をも含む。謡曲の「野中の清水」は家を去った女房に印南野で追いつき連れ戻す筋。「思ひ出でよ」の命令形懇願はつれなくなった相手に、たとえ昔通りになれずとも、せめてとの意か。為重は二条為世の孫、非業の死を遂げた、と。


 命あらば逢ふ夜もあらむ世の中になど死ぬばかり思ふ心ぞ  藤原惟成

詞花集、恋上、寛和二年、内裏の歌合によめる。
天暦7(953)年-永延3(989)年、花山天皇の乳母を務めた藤原中正の女を母に、道長は母方の従弟にあたる。花山天皇の側近として権勢をふるうも、退位出家とともに惟成も剃髪隠棲した。拾遺集初出、勅撰入集17首。
邦雄曰く、寛和2(986)年33歳、他界3年前の作。悲調一色、涙の雨と滝に濡れそぼった王朝恋歌の中に、このおおらかな調べは珍しい。悠々として迫らぬ、しかも達観の臭みなどない安らぎは実に頼もしく、また貴重でもある。切羽詰まって盲目になった恋人同士を、一瞬蘇らせ、生き直させるほどの命を有している。拾遺集初出歌人。漢詩作者としても名あり、と。


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ながらへてなほ祈りみむ恋ひ死なば‥‥

2007-07-12 11:09:04 | 文化・芸術
Makakasyou

 写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「摩訶迦葉の柵」

-表象の森- 釈迦十大弟子の三、迦葉

頭陀第一といわれた迦葉(かしょう)は、摩訶迦葉とも呼ばれるが、摩訶とは、大いなる、勝れた、の意だから、尊称として付加されたのだろう。
頭陀はもちろん首から提げる頭陀袋のそれだが、即ち衣食住など少欲知足に徹するを意味する。古来より「十二頭陀行」といわれ、常行乞食や但坐不臥など12箇条の禁欲が説かれる。
迦葉もまた、王舎城近くの村に住むバラモンの家に生まれた。
釈尊に帰依してより8日目に最高の悟りの境地とされる阿羅漢に達したとされる。
迦葉に伝えられる挿話として、釈尊が身に着けていたボロボロの衣-糞掃衣(ふんぞうえ)-に比べて自分の着衣がずいぶんと良いものであるのを恥じ入り、強いて頼みこんで取り換えて貰ったという話がある。彼は釈尊の糞掃衣を押し戴いて、以後これを愛おしむように着つづけたという。
文字通り、彼が釈尊の衣鉢を受け継いだ、というわけである。
釈尊入滅後、生前諸処で行われた説法を編纂するために、彼が主幹となって、500人の修行者を集め編集会議-結集-を開いたとされ、経典や戒律のテキストが成立していく。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-67>
 歎く間に鏡の影もおとろへぬ契りしことの変わるのみかは  崇徳院

千載集、恋五、百首の歌召しける時、恋の歌とてよませ給うける。
邦雄曰く、あれほどの約束も人は違えてしまった。すべては異様(ことざま)になってゆく。それのみならず、悲嘆にくれてやつれ果てた私の顔は、鏡の中で慄然とするほどである。嘗ての面影など思い出すよすがもない。百首は久安6(1150)年、作者31歳の催しであった。常に一脈の冷気漂う御製ではあるが、この悲嘆の歌にも、題詠を遙かに超えた迫力を感ずる、と。


 ながらへてなほ祈りみむ恋ひ死なばこのつれなさは神や受くらむ  松田貞秀

松田丹後守平貞秀集、恋、祈恋。
邦雄曰く、性根を据えてかかった「祈恋」である。満願日になお恋の叶わぬ歎きなら、六百番歌合の定家は「祈る契りは初瀬山」と、果つる口惜しさに唇を噛んだが、貞秀はこともあろうに「神や受くらむ」と言い放った。むしろ潔い。前代未聞の異色恋歌と言おう。貞秀は室町幕府奉行人、二条為重と交わりあり、南北朝後期における出色の武家歌人、と。


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