山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

江を近く独楽庵と世を捨て

2008-11-18 12:56:24 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― アレルギー性喘息に朗報か

アレルギー性喘息など気道過敏症の原因となる細胞を、理化学研究所がマウス実験で突き止めた、という。

肺に多く分布するNKT細胞-ナチュラルキラーT細胞-にだけ出現するIL-インターロイキン--17RBというタンパク質を持ったヤツが、この悪玉細胞だということらしい。

これまで、発作的な喘息や、咳を起こす直接の原因物質は分かっていたが、これらがどの細胞で、どう作られるのか不明だつたから、全国に300万人といわれる慢性患者に対症療法でしか処置できなかったものが、近い将来、慢性化する前に予防できるように実用化が期待される、というわけだ。

このところ多田富雄の免疫理論などを読んできたおかげか、こういう話題にも少しは理解がともないついていけるようになった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-15

   麻かりといふ哥の集あむ  

  江を近く独楽庵と世を捨て  重五

江-え-を、独楽庵-どくらくあん-

次男曰く、逆付ふうの二句一章で、其人の付。

恋の気分を抜いて世捨人としたところに思案がある。その世捨人が、山ならぬ江上に庵を卜し、葦刈ならぬ麻刈という名の歌集を編む、という目付が面白い。

「刈りはやす麻の立ち枝にしるきかな夏の末葉-うらば-になれるけしきは」-正治百首、1200、源通親-というような歌が無いではないが、麻刈は俳諧が季題とした習俗である。

「独楽庵」は長嘨子の庵室「独笑」の捩-もじ-りだろう。以て江上の隠者の住まいに当てたのは、芭蕉への讃である、と。


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麻かりといふ哥の集あむ

2008-11-17 09:55:13 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより―  うれしい便り

先週は「山頭火」公演の案内送付と、会場のMULASIA近く、西区や港区に在住する知人らを訪ね歩くのをもっぱらとしたため、他のことはほとんど手につかずといった体だったし、かなり疲れを溜め込んでしまったようである。

昨日は終日、イキイキを休んだKAORUKOを連れての知人宅詣でで、さすがに疲れたか、遅い食事を摂った後、我知らず早々と眠ってしまうという始末で、明け方近くにはずいぶんと夢を見ていたのだろう、朝の目覚めもいつになく重かったのだが、そんな疲れを吹き飛ばしてくれるような嬉しい便りが一通、戦後の関西演劇界にあって、最近までずっと、つねに下支えに徹して働いてこられたご老体、三好康夫さんからだ。

あくまで私信なのだが、心のひろい方ゆえ、此処に掲載させてもらってもけっしてご気分を損なわれることなどあるまい。

「お便りと『うしろすがたの‥山頭火』へのお招きありがとうございました。
久しぶりの山頭火、観たいですね、今も心の中に”うしろすがた”が残っていますが、観たいです。
もっとも小生、二、三日前から体調を崩して足も覚束無い状態ですが(齢の所為かときどきこんな風になります)、なんとか上演日までに体力を恢復して”うしろすがた”を見たいとねがっています。
私にとって林田さんと『うしろすがたの‥山頭火』とは一体、自分でもよくわかりませんがそんな感じです。強く印象付けられています。
お会いできるのを楽しみにしています。
ありがとうございました。」 三好康夫、拝

こんな便りを戴くと、疲労も気鬱も吹き飛ばされ、ぐっとかろやかな気分になる。ありがたいことだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-14

なつふかき山橘にさくら見ん  

   麻かりといふ哥の集あむ  芭蕉

次男曰く、「夏深き」というから「麻刈-浅カリ-」と応じている。また、麻は雌雄異株で、雄木は桜の花に似た五弁の小花をつけ桜麻と呼ばれる。ならば、麻刈は桜狩だ。

思付はまずこのあたりだろうが、合せるに兼好の
「思ひ立つ木曽の麻衣浅くのみ染めてやむべき袖の色かは」-風雅・雑-を以てしたのではないか。恋の露顕で都を逃出したときの詠と伝えられ、よく知られた歌である。

「麻かりといふ哥の集あむ」は、目立たぬ風情の山橘の花も、やがて実を結び色に出ると読めばわかる。麻刈-麻引-は末夏の季、但し「麻かりといふ哥の集」は季ではない、と。


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なつふかき山橘にさくら見ん

2008-11-15 09:09:37 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・折口信夫と「日琉語族論」
西欧的な言語年代学によると、7000年前頃まで遡れば日本-本土-語と琉球語は同じ所に行きつく-服部四郎説-。折口は本書において、言語の構造を比較しながら、両者はどこまで遡れば同じかを内在的に考察している。
一つに、古代以前の日本語には「逆語序」の時代があった、ということ。
もう一つは、「逆語序」の考えをひろげたとも言えるが、日本語と琉球語では空間的な捉え方が違っている、ということ。日本語は、東京都→千代田区→一ツ橋と大から小空間へ、琉球語ではこれと反対に小から大へ。折口は、古代以前まで遡れば、日本語も琉球語と同じ、小から大へ、だったと指摘した。

例えば、琉球語で「太郎金」というように人の名前に「金」という尊称を付けるが、それは本土語で「金之助」や「金太郎」というのと同じ尊称の接尾-頭-語であるが、かように「逆語序」は普遍的にさまざまなことについて言える。
これを枕詞に敷衍すれば、「春日-はるひ-の春日-かすが-」のように地名が同じ地名の枕詞になっていたりする初期の形は、「逆語序」と「正語序」が合致した「同語序」の時代を示すもの、と私は考えた。-「初期歌謡論」

・中原中也と「在りし日の歌」
中也の本質的な仕事は、虚無感と叙情性が融合し、「呪われた詩人」の素顔を覗かせた時に生まれている。
詩の往還、中也の詩は「還り道の詩」と言える。難解な言葉でひたすらに新しい表現や実験をめざす「往路の詩」ではなく、徹底して突き進んだ地点から読者の意識の方へ、生活の現場の方へと戻ってくる「還り道の詩」だと。

「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ/ヌックと出た、/骨の尖
‥‥‥‥
故郷の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立って、/見てゐるのは、/―――僕?/恰度立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがってゐる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-13

   庭に木曾作るこひの薄衣  

なつふかき山橘にさくら見ん  荷兮

次男曰く、山橘はヤブコウジ-マンリョウ属-の古名である。自生の常緑小低木で、江戸時代初ころから園芸品にもなった。末夏に白色五裂の小花をつけ、球形の実を結び、冬になると核果は鮮紅色を呈する。

「万葉集」には5首見えるが、勅撰では「古今集」に1首あるのみで、橘-花橘-のもてはやされ様とは較ぶべくもない地味な存在で、歳時記・博物誌の類にも「和漢三才図会」を除いて、江戸末に至るまで挙げたものを見かけない。現代は「藪柑子」として掲げ、その実を冬の季に扱い正月の縁起物にする。

「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」-万葉・巻四相聞、春日王-

「わがこひをしのびかねてはあしひきの山橘の色にいでぬべし」-古今・恋、紀友則-

赤く熟れる実を恋の序詞として詠んでいる。荷兮は「こひの薄衣」にふさわしいのは花橘ではなく、山橘の花だと云いたいのだろう。

「羅-うすもの-」を季語として採上げるようになったのは江戸中期からで、「冬の日」当時はまた約束としての認識はなかつた。況んや「こひの薄衣」をただちに軽羅と見做すわけにはいかないが、「続後拾遺集」-16代-の夏部に、
「形見にと深く染めてし花の色を薄き衣に脱ぎや更ふらむ」-源重之女-ょ収める。

荷兮が「こひの薄衣」から夏の季を引出したのはあるいはこの歌を知っていて証としたのかもしれない。

諸注は「山橘」に迷っている。あるいは花橘と同義と云い、橘類の惣名と云い、牡丹の異名と云い、藪柑子の青い実と云う。「なつふかき山、橘に‥」と読む者もある、と。


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庭に木曾作るこひの薄衣

2008-11-13 18:30:16 | 文化・芸術
Alti200601034

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・太宰治と「斜陽」
太宰治の作品が現在でもよく読まれ続けているのは、やさしい言葉で書かれているように見えて、本当は少しも啓蒙家になったりしない力量にあると考えられる。太宰の言葉で言えば「おいしい料理」、彼自身は落語から学んだと言っているが、それだけ文体がぴたりと決まって凝縮されている。

漱石もそうだが、優れた作家の作品には、人物の微妙な心の動きなど、読む者に「これは自分にしか分からないはずだ」と思わせるものがある。しかも、多数にそう思わせるのだが、それが名作や古典のもつ普遍性というものだ。

太宰治の作品まではもう既に古典の条件を備えていると確言できるが、それ以後の作家の作品が、古典と呼べるほどの名作かどうかをはっきりと言うことはできない。それはつまり、私自身と地続きな感じがどこかに残っているからだ。

・柳田國男と「海上の道」
国家の起源、日本人の起源について柳田が注目したのは、中国の殷の時代から宝貝が通貨として使われていたことだった。宝貝の分布調査からすると、中国大陸の海岸から内陸の住人が琉球の宮古島などへ宝貝を取るため船でやって来たと考えた。それらの人々が琉球諸島に定着し、さらには南九州に到達し、次第に東へ移動していき、日本列島に分布するようになった、と。

「海上の道」でもう一つ主要な点は、島々の各地にある久米と呼ばれるものはコメを表し、稲作がもたらされた痕跡なのだということである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-12

  雉追ひに烏帽子の女五三十  

   庭に木曾作るこひの薄衣  羽笠

次男曰く、茶摘女を、白拍子姿に見立て、雉追遊びと戯れる風狂の御仁が園主なら、その庭作りはさぞかし木曽路を模した桟-かけはし-の一つも取入れてあるだろう、と付けている。

「木曾のかけはし」は「能因歌枕」に既に見えるが、「女のもとに遣はしける、中々にいひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなぞ」-拾遺・恋、源光-など、女の移り気を恨む男の歌だとというところに特徴がある。

「庭に木曾」を作れば懸橋-恋の心-の一つも工夫せぬわけにはゆくまいが、「女五三十」では選取り見取り、恨み言どころではないでしょうなあという諧謔がみそである。「こひ」-恋=濃-を移して「薄衣」と治めたゆえんだ。懸橋をめぐって男女の位相を翻している、と。


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雉追ひに烏帽子の女五三十

2008-11-11 11:36:25 | 文化・芸術
080209010

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― 阿呆か、定額給付金をめぐる迷走劇

このところ私自身は、山頭火公演の案内書きに昼も夜もないありさまなのだが、
世界金融の崩壊の渦中にあって、この国の政府首脳たちは、就任早々の麻生総理が人気取りにぶち上げた国民全世帯に定額給付金をとのご託宣に、振り回されるばかりの始末で、なんと悠長な御仁たちであることよ。

事務的な煩瑣ばかりではなく、市町村では配当所得など掴めぬものも多々あり、厳密には所得制限など出来る筈もないのに、1500万円以下の世帯になどと宣ってみたり、これはとても出来ぬ相談だと思いいたれば、今度はなんと高額所得者の方々には「自発的辞退」を促すのがよろしいときた。

このオッサン、ホンマに阿呆や!

内閣成立直後の衆院解散が当初お決まりコースであった筈なのに、自民党総裁選なるバカ騒ぎ終わって総理に就いた途端ヤメタとばかり棚上げしては、その時期をめぐって二転三転迷走を繰り返し、選挙目当て見え見えの愚策においてもこんな迷走劇を演じる始末では、はやくも政権は末期症状か、と永田町界隈でそんな観測が出てくるのもやむなかろうというものだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-11

   茶に糸遊をそむる風の香  

  雉追ひに烏帽子の女五三十  野水

次男曰く、「糸遊」を虚から実に執成し、眼前、茶摘みの景気としたところが見所だ。陽炎の立つ茶畠の其所此所から雉が飛び立つ、と読めばよい。「烏帽子」は茶摘女の姉さん被りを見立てた俳言である。三四十、四五十という表現はあるが、「五三十」とは耳慣れぬ。しかし利休の手紙などにも数日を「五三日」と遣った例がある。「五三十」は大勢ということを収まりよく云回した風流だろう。

はこびは三句春だが、花の座を持たぬ所謂素春で、一歌仙一所にかぎり許される、と。


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