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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

茶に糸遊をそむる風の香

2008-11-09 23:56:41 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 同い年対談 in いたみ

ネパールの岸本学校を支える「きしもと学舎の会」に新しい支援の輪が生まれようとしている。

昨日の午後、車イスの岸本康弘を車に乗せてJR伊丹駅前のAI・HALL横の喫茶室に行った。
会ったのは、岩永清滋氏と岩国正次氏と、それに牧口一二氏。

牧口氏は、NHK教育TV「きらっといきる」のレギュラー司会を、番組が始まって以来10年近く務めており、講演でも全国をめぐる多忙の人。この日も番組の収録を終えて駆けつけたということで、遅れて参加。
岸本と同じく、岩永氏も牧口氏も障害者で、集った5人の内3人が車イスという一座がテーブルを囲んで、学舎支援のあり方について、しばしの談論は終始和やかに進んだ。

岸本の場合、1歳の頃、腸チフスから激しい高熱に苦しんだあげく脳性マヒとなり、四肢が不自由の身となったのだが、牧口氏の場合も、同じ1歳の頃に脊髄性小児マヒ-ポリオ-にかかり、不自由な身となっており、しかも二人は1937年生まれの同年だ。その誼もあってか以前から交友はあったらしい。

その二人の対談をメインに、きしもと学舎支援を広く呼びかけるべくイベントを行うこととなった。

11月23日(日)の午後2時から、場所は昆陽池公園傍のスワンホール3階の多目的ホール。

岩永氏が代表理事を務めるNPO法人サプライズも共催のかたちで支援体制を図るという。
岸本自身の健康問題という先行き不安の火種を抱える学舎の会にとってこんな力強い朗報はないだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-10

  寂として椿の花の落る音  

   茶に糸遊をそむる風の香  重五

次男曰く、茶はもともと僧院の学事修行に欠かせぬ覚醒剤で、晩唐以後、在俗のまま僧居を装い好んで残心を茶烟-湯気、匂-にに託する風は、文人間の一流行となる。芭蕉の、
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」 -野ざらし紀行-
もそれを抜きにしては語ることはできない。「茶に糸遊をそむる」は陽炎-春-の立ちそめる春分の候、茶を煎じると解してもよいが茶烟そのものを、陽炎と踏み込んで見遣った執成に気転の妙があり、「糸」に掛けた「そむる風の香」も巧い治め方だ。見る聞くの次は嗅ぐと見定めた韻字-香-は、むろん計算の内である、と。


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寂として椿の花の落る音

2008-11-07 21:40:42 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


秋も深まりゆくころ
大阪にてはひさかたぶりの
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」
公演ご案内とともに ―――

「もりもりもりあがる雲へあゆむ」と最期の一句を遺し
行乞放浪の俳人山頭火が、伊予松山の一草庵にて人知れずひっそりところり往生を遂げたのは、昭和15年の秋、10月11日の未明のこと
享年59歳とされているが、当時は数え年、彼の誕生は明治15年12月3日だから、今様に満年齢でいえば57歳ということになる
時代の様相もずいぶんと異なり、単純な比較などたいした意味を持とう筈もないのだが、今年64歳になってしまった私などは、彼の生死に比しすでに6年も余って生き、世間に恥を曝しているかと思えば、おのが生きざまを省みては汗顔のかぎり
身の縮まる思いに襲われもするが、そこは三つ児の魂ゆえか、はたまたの類か、演らずにおれぬ妄執が性懲りもなくこの身に擡げてきては、このたびの企てとなる

孤高の俳人と賞され、旅に生き放浪の果てに生涯をまっとうしたとみられる山頭火も、その実相はといえば我欲の人、妄執の人であったともいえる一面がある
少年の頃から文芸の道を志すも挫折を繰り返し、自身が書き遺したように破滅型の半生をおくった挙げ句、満42歳にしての出家ではあったが、なお苦悩は深く、自暴自棄の果てに服毒自殺を図ったりもしている
山頭火の内奥にひそむ欠落感、欠けた心の、その因るところは‥
といえば、なによりもまず挙げられるべきは、満9歳の春とまだ幼き頃の、母フサの投身自殺であったろう
非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪流離いの生涯に、母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす

だが、身内の非業の死といえば、あまり知られていないが、山頭火にはもう一人、弟二郎の自殺がある
山頭火より5歳下の二郎は、就学前の6歳になったばかりの春、どういう家内事情であったかしれぬが、他家へと養子に出され、さらに長じてのちは、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田最後の砦であった種田酒造の破産によって、養子先を追われるという災厄に見舞われる
依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せるが、山頭火もまた身過ぎ世過ぎの零落の身であれば、弟の寄生を受け容れられる筈もなかった

二郎は、大正7年6月、人知れず郷里近くの愛宕山中-現岩国市-で縊死した
その遺書に
「内容に愚かなる不倖児は玖珂郡愛宕村の山中に於て自殺す
天は最早吾を助けず人亦吾輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならむ。喜ばしき現世の楽むべき世を心残れ共致し方なし。生んとして生能はざる身は只自滅する外道なきを。」と認め
「かきのこす筆の荒びの此跡も苦しき胸の雫こそ知れ」、外一首を遺す
遺体発見は約一ヶ月後の7月15日、遺書の末尾に記されていた住所先の山頭火に知らされ、彼は直ちに遺体の引取に発っている
「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」 山頭火
二郎はこのとき満31歳、山頭火は満35歳
大種田没落の有為転変のうちに翻弄されるがまま、悲劇の人生をおくった薄幸の人であった

山頭火身内の、二つの自死
幼き頃の母の自死は、追懐、追慕の対象となり得ても、弟二郎のそれは、山頭火にとって慚愧の念に苛まれるばかりのもの、ひたすら意識下に潜ませ閉じ込めおくべきものではなかったか
弟の自死について、山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない
この頃は、彼もまた死の誘惑に囚われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりであったことが、日記や散文の処々に覗えるのだ

そして一年後の大正8年秋、山頭火は突然、熊本に妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行
以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を掉尾とする、単身のままの、大都会にただ埋没し彷徨しつづけるといった、東京漂流の数年間を過ごしている
おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのであろうか
などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのかも、仄見えてくるような気がするのである

生者必滅の倣い、老少不定
いったいなんの宿縁か、9月、この我が身に思いもよらぬ凶事が降り来たった
不慮の事故、逆縁の、死
RYOUKO、39歳、いまだ独り身だった‥‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-09

   漸くはれて富士みゆる寺  

  寂として椿の花の落る音  杜国

次男曰く、「寂」はジャクか、それともセキか。仮にジャクと読んでおく。

諸注、雑の句に季-春-を持たせ、庭前の景をあしらった遣句と読み過しているが、花木の栽培には時代の流行があり、椿は桜にもまして当時最ももてはやされた花木だということに作分がある。とくに寺庭に椿はつきものである。
「音」の韻字は、前句に「みゆる」とあれば当然の工夫だ。

万葉のころからよく知られた椿が園芸品種として注目されたのは大凡桃山頃からで、とくに後水尾天皇の元和年間に改良・栽培が盛んになり、徳川秀忠は諸国の品種百椿を江戸城内に集め植えさせたという。図譜の類もこの頃から出版された。

「雲凝り霧重うして椿の落ちたる、此花の風情、此境の光景、まことに宜しき寺の静けさ庭のさまなり」-露伴-、これは解釈ではない、と。


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漸くはれて富士みゆる寺

2008-11-06 18:17:19 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・谷崎潤一郎と「細雪」
大阪船場の旧家に生まれた四人姉妹を描いたこの小説の構想は、谷崎自身現代語訳をしている「源氏物語」から借景したものだろう。晩年の光源氏が六条院の庭を春夏秋冬の四つに区切り、妻妾たちの性格に応じてそれぞれの庭に面して住まわせるところを思い浮かべるだけで、「細雪」に与えた影響のほどはわかるのではないか。
来日したときのサルトルが、日本の現代文学で何がいいかとの質問に、「細雪」と答えていたのが記憶に残る。彼はことき、日本の女性たちがどんなふうに日常生活をしていて、どう生きているのかがよく描かれた小説だ、と評していた。

・小林秀雄と「無常といふ事」
「無常といふ事」はすべて短章から成っている。小林秀雄は文章をよく推敲して書く人だ。古典を生き生きと蘇らせる批評家としての手腕は類例がない。ただ、古典の思想を思想として取り出すのは不得手で、あくまで文学、文芸として論じてしまう。それが弱点と言えば言えよう。
たとえば「一言芳談」の中から一つの挿話を引いて論じている短章がある。「一言芳談」における「疾く死なばや」という倒錯した思想は、日本の思想としては最もラジカルなものだが、彼はそんなことには一言も触れない。文芸的にはともかく思想的には一番詰まらないと思える箇所を取り上げて、文芸的な解釈を示しただけに終ってしまう。

・坂口安吾と「白痴」
「白痴」は戦争中を舞台に、主人公の男の奇妙な日常を描いている。自分の家に転がり込んできた知的に障害のある女性と一緒に暮らし、空襲があるとうろうろ逃げ回る、といったものだ。戦争もウソ、戦後の平和もウソということを暗に示している、そんな作品が書けた安吾は、「無頼派」と称してどんなに戯作者風を装っても、つねに大知識人しか持ちえぬ全面性を引きずっていた感がある。
安吾の「教祖の文学」は戦後に初めて小林秀雄を批判したものだが、悪ふざけを交えながら芯が通っていて、小林の弱点をよくついていた。小林秀雄や保田與重も第一級ではあるが、ともに思想がナショナルなところへと収斂してしまう。比べて無頼派の文学者たち、太宰や安吾は、「身と魂をゲヘナ-地獄-にて亡ぼし得る」-聖書-人たちとして本気だった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-08

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  

   漸くはれて富士みゆる寺   荷兮

次男曰く、荷兮の答は宗祇だろう。
明応9-1500-年九たび招かれて越後に下向した80歳の宗祇は、翌文亀元年9月頃から発病、2年2月末宗長・宗碩扶けられ越後を出て草津・伊香保に赴き、7月ひとまず江戸に着いた。その後は駿河を経て美濃へ向かう予定だったようだが、7月30日箱根湯本で歿した。

宗長の「終焉記」によれば、それより前24日から26日まで、病躯を押して「鎌倉近き所」で千句興行に臨み、これが最後の連歌になった。その「終焉記」に、越後を去るに臨んでの宗祇のことばを書き留めている、「都に帰り上らんも物憂し。美濃国にしるべありて、残る齢のかげ隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし、富士をも今ひとたび見侍らん‥」。

句仕立の拠所はこれだろう。「終焉記」をたよりに、宗祇最後の興行場所は藤沢の富士見寺-時宗総本山遊行寺-だったのではないか、と私なら考える。

露伴は、前句を「場処事情をば転じたるのみ、別に深意あるにはあらず」と読み、次いで連歌興行が表も済んで何句か進んだころ、漸く雲霧切れて霊峰の見えてくるのを悦び合うさまだ、と解している。「連歌の中に、名山の坐に入らざるを託ちて、仙姿の我が眉を圧せんことを祈り求むる意の句なども有りしやとおもしろし」と云う、と。


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秋のころ旅の御連歌いとかりに

2008-11-05 14:42:29 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


昨夜遅くから、このたびの山頭火上演のための、挨拶文づくりに着手、苦吟したが、漸く昼時前に成った。この一週間ほど早くせねばと些か焦り気味だったから、とりあえずやれやれだ。

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -4-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・保田與重と「日本の橋」
彼は、プロレタリア文学が興隆した若い頃には左翼的な素養を身につけていたし、時代とともに歩んで、次第に民族主義的な思想に移っていった。例えば「エルテルは何故死んだか」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」について不倫の末の主人公の自殺を論じた優れた評論だが、左翼的と言ってもいい雰囲気をもっている。
「日本の橋」では、橋を主題に西欧との比較文化論を非常に説得力ある形で展開した。西欧の橋が頑丈な石造りなのは、征服者が大勢の軍隊とともに移動するための便宜であるのに対し、日本では木の橋や吊り橋で、弱くて哀れな造り、平和的なものであり、橋というものの目的意識からしてまるで異なっている。
彼の思想的特色は「本当の強さとは弱いことにある」というものだった。弱いことが日本の美の本当の特色であると終始一貫言い続けた。

・吉川英治と「宮本武蔵」
横光利一は純文学でありながら大衆小説の魅力も持っているものが本格的なのだといい、その本格小説をめざして限界まで行った。吉川英治は対象小説から出発し、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」のような教養小説を書き、「宮本武蔵」で一種の本格小説の域に迫った。
大衆小説としての吉川文学は、物語性のその仮構力にある。ベストセラーとなる作品の条件や共通点を挙げるなら、一つは大衆の好奇心と作家の好奇心が重なること。もう一つは決して縦に掘らないで、横に世界を広げてみせるということである。

・中野重治と「歌のわかれ」
お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
と抒情を排し、プロレタリア文学理論を主体としてめざした中野重治が、本物の文学者、芸術家だと言えるのは、左翼文学の論争の中で「文学に政治的価値なんてない」とはっきり言っていたことだ。「芸術的価値の内容の中に社会性があることはあり得るが、それと別に政治的価値があって、だから主題が積極的でなければならないというようなことは全くない」と終始主張したのは彼だけだった。この人は何か強力な倫理に自分の個性をぶつけて鍛えられてしまったという印象がどこかにある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-07

   酌とる童蘭切にいで   

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  芭蕉

次男曰く、陣中の宴の即興を、連歌会の席の設えに執成した付である。

かりそめの会とはいえ、飾り花の一つも要る。会は宴から引続いての興と読んでもよいが-戦国武将には連歌はつきものである-いくさを離れて、場も人も読替えたと考える方が次句に工夫を促す含を生む。わざわざ「旅の御連歌」と遣ったのもそのためで、たとえ征旅でも陣中の興を「旅の御連歌」とは云うまい。

野水句から本能寺のことは当座の話題にのぼったに違いない。連歌という素材の思付はそのあたりからかもしれぬ。光秀の連歌好とりわけ大事決行を前にしての行祐、紹巴らとの百韻興行-発句は「ときは今あめが下知るさつき哉」-はよく知られている。それを踏えて、夏ならぬ「秋のころ」-秋三句目である-旅中「甚仮-いとかり-」に催された連歌を思出さないか、芭蕉は問掛けているらしい、と。


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酌とる童蘭切にいで

2008-11-04 14:40:19 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 日月山水図を観る

天野山金剛寺に伝わる作者不詳の名品「日月山水屏風図」

5月5日と昨日-11月3日-の二日のみ特別公開されるというこの名画を拝すべく、昼前からKAORUKOを連れて出かけた。途上、泉北に住んでいたころはよく通った河内長野へと抜けるコースに入ると懐かしい記憶がさまざま甦ってくるが、バイパスが出来ていたりで様変わりしているのには驚かされもした。

行基が開基し、空海が修行したと伝える古刹だが、天野山西北の山裾に位置し、川とは名ばかりの細い流れの天野川に沿って寺域は南北に伸びる。休日とはいえ訪れる人はまばらでひっそり閑としていた。
受付の納経所から本坊に入れば、枯山水の庭を眺めながら行宮所であったという奥の間へとつづく。六曲一双の屏風の前には、四十前後かとみえる男女の二人連れが靜かに座して見入っていた。横には床几に腰をかけた作務衣姿の女性がじっと黙しているばかり。

「日月山水屏風図」は室町時代の作とも、また下って桃山時代の作とも云われ、作者も詳らかではない。春夏秋冬を描いた四季山水の図柄だが、型破りなダィナミズムが画面に満ちあふれているなんとも奇妙、不思議な絵である。

江戸時代の「河内名所図会」に、金剛寺に残る屏風について「雪村筆一双、元信筆一双、土佐光信女筆一双」とあり、この三者のいずれかが作者であろうとする説もあるが、どうやら決め手に欠けるようで事実は藪の中。

丸山健二の新作「日と月と刀」に想を与えたであろうと思われるこの「日月山水図」、作者不詳なればこそ奇想天外な幻想世界をかくも現出せしめたか。丸山自身が文藝春秋「本の話」で自作について語っている件りがおもしろい。

てっきりこの小説の所為で拝観に来る者も多かろうと思っていたのだが、豈図らんや、滞在のあいだ後から来た者とて一組の初老男女のみ。床几に座る作務衣姿の女性に、丸山の新作云々の話をしたら彼女は知らず、慌ててメモを取っていた。

夕刻からは、そのまま車で移動して、山頭火の初稽古。
台本片手に半立ちといった体の稽古を、KAORUKOが時に笑い時に小難しそうな表情を浮かべながら、さして退屈した様子もなく見続けていたのには驚かされたものである。いつのまにかこの幼な児も私の観客になりうるほどに成長してしまっているというのは、望外の果報なのかもしれぬとつくづく思い至る。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-06

  音もなき具足に月のうすうすと  

   酌とる童蘭切にいで   野水

訓は「しゃくとるわっぱらんきりにいで」

次男曰く、陣中の人情を取り出した作りだが、静・動を以てした向付が、二句一体かによって、場景は違ってくる。

前者なら、夜討に構えるさまで、さしずめ本能寺の変の面影をかすめた付と読める。森蘭丸の一字を裁入れて信長の心を匂わせれば、こういう句になるだろう。後者なら、蘭と乱を通いにした、出陣前の縁起かつぎか、それとも殺伐とした滞陣・籠城などでふと兆した優情でもあるか。

句は秋二句目、したがって云うところの「蘭」とは、これに見合うものを求めれば建蘭のことで、なかでも雄蘭または駿河蘭の名で呼ばれている品種だろう。一茎多花、花期は7月~9月頃、中国原産の栽培種である。日本にはホクリとかジジババなどの名で呼ばれている古来自生の春蘭があるが、歳時記は「蘭」を秋のものとし、ホクリは「春蘭」として別に春の部に立てている。中国の呼称にならってフジバカマのことを古くは蘭と云ったからか、それとも四君子のうちで蘭を菊と併称する慣わしがあるからか、そのあたりから起こった部類だと思うがよくわからない。
古来四君子の一つとしてもてはやされたことばの香りを取り出しているだけなのだろう、と。


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