10月2日の朝日新聞の夕刊にいけずというタイトルの京都のことを書いた記事がありました。
客人に本当は帰って欲しい時に言うという「ぶぶづけでもあがっておいきやす」伝説。(ぶぶづけ=お茶漬け)
このいけずと言う記事のライターは、小学校の5年まで京都で育ったが、京都が苦手だと前置きして、子供の頃にお母さんがエプロン姿で買い物に出かけただけで、「あそこのお嫁さん、エプロンつけて市場歩いてはったんえ」と噂した近所の人たちのいけずさが、京都が苦手と思う原因だろうと書かれていました。
10年ほど前、女学校時代の友達の家に遊びに行く母に、評判の京菓子を教えた。
わざわざ遠回りしてそれを手土産に持参した母に向かって、お友達は「美味しいわ。けど、あそこの店主、戦後によそからきゃはったんえ」とぬかしたという。
なんといういけず。
京都人最大の誇りは、千年の都に暮らしていることに尽きる。伝統をバックボーンに、京の真ん中で暮らしているのがステータス。だから、「昔、京都言うたら、下京と上京と中京しかあらへんわ」なんていけずなことを、平気でいわはるのだ。
京都市内の私学に通う知人の娘さんは、自宅の市外局番が075でないのがいやでたまらないそうだ。
「京都の人は、京都市内以外は京都と思ってはらへん!」
商売を営む人が、最近ある組合に入ることを認められた。その組合から祇園祭の装束の着付けに駆り出されたのはよかったが、新参者ゆえに何をやっていいのか手も足も出ずに、時間は過ぎた。
帰り際、その場をしきるドンに「すんません。かえって足手まといになりました」と謝ると、ドン=おばあさんは何処までも優しく、「いいえ、助かりました」と頭を下げた。
その話を聞いた人は、「いやあ、それ、すごいいけずやな」と感嘆したという。
京都名物いけずは、単に意地悪ではないこともある。
「お父ちゃん、なんでテレビ消すんな。いけず」と言うふうにシンプルに使うこともあれば、「いけず言わんといて」と甘えることもある。
京都名物いけずは、陰険ではなく、意地悪でも皮肉でもイヤミでもなく毒舌とも違う。
非京都人に蜃気楼におびえるなと京都の西陣育ちのエッセイスト入江敦彦さんが説いておられる。
そんなふうに言われてもニュアンスが解らないと言う事で、京言葉に詳しい関西外国語大の堀井令以知教授が例を挙げて説明してくださっています。
和服の女性に「ええ帯ですなあ」と、にこやかに声をかける女性。ほめているようで実は「着物はぱっとしませんなあ」と言うこともある。
「エスプリですよ。言うほうはニヤリと楽しみ、言われたほうも、しもたーと後で唇をかむ。遊び心です」
「ぶぶづけ伝説もそうだけれど、長居している場合じゃない時に居座るとか、非礼を暗にたしなめるのがいけず。いかにヤボか突きつけられる」。
京都は大人の街、筋金入りの都会なのだ。
対処法は? 「言葉の裏に潜む気持ちを推し量る。人づきあい偏差値を上げたらどうでしょう」と。・・・いけず。
ここまで、主たるところを拾い書きしました。
私は京都に来て、33年目に入りましたが、結婚前後に「京都では、言われたとおりに解釈したらあかんで。その反対の事を言われている場合が多いからな」とよく聞かされていました。
しかし、私は田舎育ちの何事にも鈍感な人間ですので、このようないけずにあったと言う記憶がありません。
かなりの年のおじいさんやおばあさんが、ゆっくりと、綺麗な京言葉で話されているのを聞くと、心が和みます。
私は、未だに京言葉はしゃべれません。30年経っても未だ舞鶴弁の方がよく出ます。
舞鶴の言葉は、早口で、語尾が上がりますので、主人によく叱られます。会話の途中で主人が急に怒りだすので、「何で怒るの?」と聞くと、「喧嘩売ってきたのはあんたやないの」との事。
私は喧嘩するつもりも怒るつもりもさらさらないのに、急に怒られてしまいます。
早口で語尾が上がるので、それが喧嘩を売っているように聞こえて、頭にくるのだそうです。
朝おきてから夜寝るまで京言葉でしゃべるように主人に言われ、試みてもアクセントや何かが違い、またまた「アホか、京都弁の語尾を上げるとは、何処までアホや」と叱られる始末です。
でも私は育った舞鶴より京都の方が好きです。
客人に本当は帰って欲しい時に言うという「ぶぶづけでもあがっておいきやす」伝説。(ぶぶづけ=お茶漬け)
このいけずと言う記事のライターは、小学校の5年まで京都で育ったが、京都が苦手だと前置きして、子供の頃にお母さんがエプロン姿で買い物に出かけただけで、「あそこのお嫁さん、エプロンつけて市場歩いてはったんえ」と噂した近所の人たちのいけずさが、京都が苦手と思う原因だろうと書かれていました。
10年ほど前、女学校時代の友達の家に遊びに行く母に、評判の京菓子を教えた。
わざわざ遠回りしてそれを手土産に持参した母に向かって、お友達は「美味しいわ。けど、あそこの店主、戦後によそからきゃはったんえ」とぬかしたという。
なんといういけず。
京都人最大の誇りは、千年の都に暮らしていることに尽きる。伝統をバックボーンに、京の真ん中で暮らしているのがステータス。だから、「昔、京都言うたら、下京と上京と中京しかあらへんわ」なんていけずなことを、平気でいわはるのだ。
京都市内の私学に通う知人の娘さんは、自宅の市外局番が075でないのがいやでたまらないそうだ。
「京都の人は、京都市内以外は京都と思ってはらへん!」
商売を営む人が、最近ある組合に入ることを認められた。その組合から祇園祭の装束の着付けに駆り出されたのはよかったが、新参者ゆえに何をやっていいのか手も足も出ずに、時間は過ぎた。
帰り際、その場をしきるドンに「すんません。かえって足手まといになりました」と謝ると、ドン=おばあさんは何処までも優しく、「いいえ、助かりました」と頭を下げた。
その話を聞いた人は、「いやあ、それ、すごいいけずやな」と感嘆したという。
京都名物いけずは、単に意地悪ではないこともある。
「お父ちゃん、なんでテレビ消すんな。いけず」と言うふうにシンプルに使うこともあれば、「いけず言わんといて」と甘えることもある。
京都名物いけずは、陰険ではなく、意地悪でも皮肉でもイヤミでもなく毒舌とも違う。
非京都人に蜃気楼におびえるなと京都の西陣育ちのエッセイスト入江敦彦さんが説いておられる。
そんなふうに言われてもニュアンスが解らないと言う事で、京言葉に詳しい関西外国語大の堀井令以知教授が例を挙げて説明してくださっています。
和服の女性に「ええ帯ですなあ」と、にこやかに声をかける女性。ほめているようで実は「着物はぱっとしませんなあ」と言うこともある。
「エスプリですよ。言うほうはニヤリと楽しみ、言われたほうも、しもたーと後で唇をかむ。遊び心です」
「ぶぶづけ伝説もそうだけれど、長居している場合じゃない時に居座るとか、非礼を暗にたしなめるのがいけず。いかにヤボか突きつけられる」。
京都は大人の街、筋金入りの都会なのだ。
対処法は? 「言葉の裏に潜む気持ちを推し量る。人づきあい偏差値を上げたらどうでしょう」と。・・・いけず。
ここまで、主たるところを拾い書きしました。
私は京都に来て、33年目に入りましたが、結婚前後に「京都では、言われたとおりに解釈したらあかんで。その反対の事を言われている場合が多いからな」とよく聞かされていました。
しかし、私は田舎育ちの何事にも鈍感な人間ですので、このようないけずにあったと言う記憶がありません。
かなりの年のおじいさんやおばあさんが、ゆっくりと、綺麗な京言葉で話されているのを聞くと、心が和みます。
私は、未だに京言葉はしゃべれません。30年経っても未だ舞鶴弁の方がよく出ます。
舞鶴の言葉は、早口で、語尾が上がりますので、主人によく叱られます。会話の途中で主人が急に怒りだすので、「何で怒るの?」と聞くと、「喧嘩売ってきたのはあんたやないの」との事。
私は喧嘩するつもりも怒るつもりもさらさらないのに、急に怒られてしまいます。
早口で語尾が上がるので、それが喧嘩を売っているように聞こえて、頭にくるのだそうです。
朝おきてから夜寝るまで京言葉でしゃべるように主人に言われ、試みてもアクセントや何かが違い、またまた「アホか、京都弁の語尾を上げるとは、何処までアホや」と叱られる始末です。
でも私は育った舞鶴より京都の方が好きです。