先日教室の友達に案内して貰って、渉成園に行って来ました。
園内への入り口を示す表示があり、順路に従ってこの門のような所から庭園になる。
建物の2階から猫が人を見ても恐れもせずに、観光客を見下ろしていました。
右側の池は、印月池。残念な事にこの風景にふさわしくないマンションが写っています。
この渉成園を全部回るのには、かなり広く、砂利道を歩くのが歩きづらく、疲れて半分くらいまで行って引き返してしまいました。
それに写真を撮りたい所もいっぱいありましたが、この渉成園の周りにある高層マンションがどうしても入ってしまいますので、写真も諦めました。
渉成園は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)(東本願寺)の飛地境内地(別邸)です。
1602(慶長七)年、教如(きょうにょ)上人(東本願寺12代)が徳川家康から寺地を寄進され、東本願寺が成立しました。
中国の詩人陶渕明(とうえんめい)『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣(園、日に渉って以って趣を成す)」から採って「渉成園」と名づけました。
又、周囲に枳殻(からたち)を生垣として植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも称されるようになったのです。
庭園はいわゆる「池泉回遊式庭園」であり、洛北詩仙堂を開いた石川丈山の作庭になると伝えます。
14代琢如(たくにょ)上人以後、歴代の隠居所となり、詩歌、茶の湯、能狂言などに親しむ場としても整備され、江戸時代後期の文政年間には、儒学者で漢詩人でもある頼山陽(らいさんよう)が『渉成園記』を撰して「渉成園十三景」を紹介しました。
渉成園は創立以来、幾度かの戦火に遭い、現在の建物は、1864(元治元)年の蛤御門の変による炎上以後に再建されたものであり、その後、明治天皇の御小休所ともなったことから、大宮御所の御車寄(玄関)が移築されました。
そこから内仏堂(持仏堂)である「園林堂(おんりんどう)」を中心に数奇屋(すきや)風の書院や座敷が連なっています。
なお、東本願寺歴代は千利休(せんのりきゅう)と数如人との親交にはじまって茶の湯とのかかわりも深く、松尾流や裏千家の茶道を嗜んでいたことから、園内には「縮遠亭(しゅくえんてい)や露地が整えられた「藘庵(ろあん)などの茶室も残っています。
1936(昭和11)年、文人趣味に溢れる仏寺庭園として国の名勝に指定されました。
(パンフレットより抜粋)
園内への入り口を示す表示があり、順路に従ってこの門のような所から庭園になる。
建物の2階から猫が人を見ても恐れもせずに、観光客を見下ろしていました。
右側の池は、印月池。残念な事にこの風景にふさわしくないマンションが写っています。
この渉成園を全部回るのには、かなり広く、砂利道を歩くのが歩きづらく、疲れて半分くらいまで行って引き返してしまいました。
それに写真を撮りたい所もいっぱいありましたが、この渉成園の周りにある高層マンションがどうしても入ってしまいますので、写真も諦めました。
渉成園は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)(東本願寺)の飛地境内地(別邸)です。
1602(慶長七)年、教如(きょうにょ)上人(東本願寺12代)が徳川家康から寺地を寄進され、東本願寺が成立しました。
中国の詩人陶渕明(とうえんめい)『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣(園、日に渉って以って趣を成す)」から採って「渉成園」と名づけました。
又、周囲に枳殻(からたち)を生垣として植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも称されるようになったのです。
庭園はいわゆる「池泉回遊式庭園」であり、洛北詩仙堂を開いた石川丈山の作庭になると伝えます。
14代琢如(たくにょ)上人以後、歴代の隠居所となり、詩歌、茶の湯、能狂言などに親しむ場としても整備され、江戸時代後期の文政年間には、儒学者で漢詩人でもある頼山陽(らいさんよう)が『渉成園記』を撰して「渉成園十三景」を紹介しました。
渉成園は創立以来、幾度かの戦火に遭い、現在の建物は、1864(元治元)年の蛤御門の変による炎上以後に再建されたものであり、その後、明治天皇の御小休所ともなったことから、大宮御所の御車寄(玄関)が移築されました。
そこから内仏堂(持仏堂)である「園林堂(おんりんどう)」を中心に数奇屋(すきや)風の書院や座敷が連なっています。
なお、東本願寺歴代は千利休(せんのりきゅう)と数如人との親交にはじまって茶の湯とのかかわりも深く、松尾流や裏千家の茶道を嗜んでいたことから、園内には「縮遠亭(しゅくえんてい)や露地が整えられた「藘庵(ろあん)などの茶室も残っています。
1936(昭和11)年、文人趣味に溢れる仏寺庭園として国の名勝に指定されました。
(パンフレットより抜粋)