本日は6月6日です。私のような古い人間はどうしても、この映画のことを思い出してしまう。
もちろん1976年版の方ね。リメイク版もあってCGが使われていますが、正直全然面白くない。
76年版の特殊メイクの手作り感。デヴィッド・ワーナーの首が切断されるシーンなど、明らかに作りものだとわかるわけですが、それが良いんです!
それがなんというか、映画全体をある意味「格調の高い」ものとしている一助となっているんですよ。
こういう格調の高さ。今のホラー映画には望むべくもありませんねえ。
ところで、この映画によって「666」の数字の意味が日本中を席巻することになりましたよね。「獣の数字」ですけど、我々は「悪魔の数字」だと捉えて、これが凄く流行ったものでした。
この「666」本来はキリスト教とは関係ないものだったそうな。
666は暴君と言われたローマ皇帝ネロを表す数字で、このネロがキリスト教を激しく弾圧したことから、アンチ・キリストを表す数字として流用したんです。だからキリスト教に元々あった概念ではないのです。
まあ所説あるのでしょうけど、今のところはこの説がもっとも「合理的」な説なのでしょうね。
さて、666の数字は、6が三つで「ミロク」と読めるところから、わが国では縁起の良い数字だと捉えられていたらしい。
弥勒菩薩は56億7千万年後に地上に下生して衆生を救うとされる菩薩で、言ってみれば飯屋、じゃないメシア・救世主ですな。
面白いですねえ。西洋では「獣」、東洋では「菩薩」。
一見、正反対に見えますが
しかし
人間というのは、簡単に善か悪かに分けられるものではありません。
一人の人間の中に、「善」も「悪」も両方宿っている。「賢い」ところと「愚かしい」ところ双方で揺れ動いている。
それが人間。
皇帝ネロにしても、近年の研究では暴君ではなく、為政者として大変優秀な人物であると再評価されているようです。
かつて「悪人」とされた歴史上の人物が再評価される。歴史研究の場ではよくあること。日本では田沼意次や徳川慶喜、吉良上野介や藤原道長などもそうですね。
人の実績は単純に善悪では語れない。なぜなら人の中には善と悪と両方が存在し、
「獣」と「菩薩」双方の資質を持ち合わせているから。
人は獣にも菩薩にもなれる。
獣も菩薩も、人の「中」から現れる。
そういえばこの「獣の数字」、刻まれるのは「人」の身体だそうな。つまり666とは
「人の数字」だ。
まさしく、「獣」と「菩薩」双方をその内に宿した
「人」を表す数字なのです。
獣となるか菩薩となるかは
その「人」次第。