リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

住民投票は県民を分断するのか? ―沖縄県への批判をきっかけに考える

2018-10-29 | 政治
沖縄県の県民投票について、読売新聞が「県民を分断」というような見出しで報じているのを電車内で見かけたので、検索してみた。
読売新聞によれば、自民党は、辺野古埋め立てについて「やむを得ない」「どちらとも言えない」という選択肢を加えるよう求めたのに拒否されたとのこと。この手の投票は設問の仕方によって結果が大きく変わってくるので、民意を測るための世論調査なら自民党の主張にも一理ある(でもそれをいうなら「どちらかといえば反対」もほしい。このように結果をどちらを誘導にしたいかで選択肢の候補もいろいろある)。だが「投票」ということになると、やはりYESかNOということになるのではないか。
とはいえ、私も上記で書いたように、今回の県民投票は移設反対の民意をアピールする、という以上の意義は見出しにくい。やはり、単純な「反対」ではなく、「他の候補も含めて再検討を」が目指すべき方向ではないか。

問題は政府がそのような対話をする姿勢を全く示さないことだ。沖縄県が辺野古埋め立ての承認を撤回したことに対し、政府は撤回の執行停止を、政府内の国土交通省に申し立てるという挙に出た。身内からお墨付きを得て埋め立て工事の再開を強行しようというのだ。読売新聞は「政府は対抗措置として、撤回の執行停止を申し立てた。認められれば工事再開の環境が整う。対話の姿勢を堅持し、県民の理解を得る努力を続けることが大切だ。」と書いているが(下線は筆者)、「対話の姿勢」を示さず撤回の執行停止を目指す政府に対する注文がなく、一方的に県民投票を批判するのはやはり筋違いだろう。

では県民投票は中間的な選択肢を示さないことで県民を分断するのか。だがこれについてはおそらく「反対」が多数であり、「分断」ということにはならないのではないか。繰り返すが、問題は「反対」した先の対話に政府が応じる姿勢を全く示していないことだ。

今回、電車の中で見かけた読売記事に私がこんなに反応したのは、住民による直接投票をあの読売が「県民を分断」と批判していることに興味をもったからだ。今回の県民投票については「分断」批判は当たらないと思うが、賛否が真っ二つに別れる問題を直接投票で決着をつける、というやり方はやはり賛否両派の対立をあおり、国民を「分断」するものだ。イギリスのEU離脱は、国民的合意がなく、賛否両論が分かれる状況で国民投票にかけ、僅差で離脱が決まって混乱をもたらし続けている。
安倍政権や読売新聞は国会で3分の2の議席をもっているうちにと改憲に前のめりになっているが、こういう大きな問題では、少なくとも野党第一党(今の日本のような野党がどんぐりの背比べのような状況では主だったいくつかの野党)が合意するくらいに国民の間で合意ができてはじめて国民投票にかけるべきだ。
憲法改正の国民投票では、まさか「やむを得ない」とか「どちらともいえない」という選択肢はないだろう。国民的合意が熟成される前の発議はまさに国民を「分断」するものだ。

関連記事:
「ワンイシュー投票の功罪:沖縄・普天間飛行場の辺野古移設の場合」

追記:朝日新聞2018-10-30の社説に「投票が県民の間に分断を生む懸念も指摘されている。だが、政府の意向に従うか否かで予算配分に差をつけ、分断を進めてきたのは当の政府ではないか。」とあった。同感。

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