NHKの朝ドラ「エール」(10月2日放送)のせりふが菅首相へのあてこすりではないかと思えてドキッとした。
「みんなが同じ考えでなくてはならないのかな。そうじゃない人はいらないっていう世の中は、私はいや。」
舞台は第二次大戦中。主人公の妻が、戦争の役に立たない音楽などいらない、非国民だと言われたあとに漏らした言葉だ。念のために言っておくが、べつに脚本家が菅首相を批判するつもりで書いたせりふではない。戦時中の言論弾圧を批判する言葉が当てはまってしまうのが、アベ・スガ政権なのだ。
菅首相は、日本学術会議が推薦した会員候補105人のうち6人の任命を拒んでおり(朝日新聞2020-10-6他)、理由も明かそうとしない。しかも学術会議の推薦段階から首相官邸が選考に干渉する例は安倍政権下の2017年にすでにあったという(同一面)。
学術会議の定員は210人で、3年ごとに半数ずつ改選していく。新会員は、学術会議からの推薦に基づいて内閣総理大臣が任命するものとなっている。「法律上、首相が任命することになっているのだから推薦どおりでなくてもいいじゃないか」というのが首相の言い分だが、だからといって首相の好き勝手に選んでいいというものではない。憲法は天皇が「内閣の助言と承認により」国事行為を行なうと定めているが(7条)、「助言と承認」だからといって、天皇に行なわない自由があると解釈する人はいないだろう。
除外された6人には安倍政権での安保法制や共謀罪に反対の立場を取ってきた人も含まれ、首相は「まったく関係ない」と主張しているものの、政治的立場が理由という疑いが濃厚だ。そもそも菅首相は首相就任前の自民党総裁選の段階で、政権の決めた政策の方向性に反対する幹部は「異動してもらう」と言い放った(共同通信2020-9-13)。政治的理由でないというなら、任命を拒む正当な理由を公表すべきではないか。政府は人事に関してコメントは控えるとしており、たしかに個人の人格等の問題であれば公に取り沙汰することは控えるべきだが、日本学術会議法は「優れた研究又は業績がある科学者のうちから」候補者を選考すると定めており(17条)、人格云々の問題ではないはずだ。「優れた研究又は業績」を専門家でもない首相が判断するというのはそもそもおかしいのではないか。
首相が任命するよう法改正された1983年の国会答弁で当時の中曽根首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない。学問の自由、独立はあくまで保障される」と述べており、法文にも「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、政府からの独立を定めている。
最高裁判事についても、法律上は内閣が指名するものでも時々の政権による恣意的な選任を防ぐために出身枠が慣例として定められていたのだが、安倍政権はそれも破った(過去ブログ)。今回は慣例ではなく、法律に学術会議の「推薦に基づいて」と規定されているので、より悪い。
仮に法律的に首相による選択が認められていたとしても、権力は抑制的に行使するべきものだ。放送法に基づく総務相の停波発言もそうだったが、権力者が法律で認められたことは何でもやるという立場では、国民の自由はどんどんしぼんでいってしまう。
追記:菅首相は6人を除外して99人に絞られる前の105人の名簿は「見ていない」という(朝日新聞2020-10-11)。だとしたら、「学術会議からの推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」という法律に基づく任命を誰かが阻害したことになる。もっとも、菅首相も当初は自分の判断であったようなことを言っていたし、首相に105人の名簿を渡したとの証言もある。菅首相の発言が本当かどうか、というレベルから検証が必要だ。
追記2:学術会議は1950年代には研究費の配分にも強い発言力をもつなど存在感が大きかったが、政府の方針に反対することも多くて、新団体に徐々に機能が移行されていった。1959年には科学技術会議(現・総合科学技術・イノベーション会議)、1967年に学術審議会(現・科学技術・学術審議会)が作られ、学術審議会は政府が御用学者を並べることのできる場になっているという(朝日新聞2020-10-13)。近年では政府は学術会議ではなく、審議会に諮問するようになったため学術会議からの答申がない状態が続いているが、その代わり、もっと簡便な審議依頼とそれに対する回答は行なわれており、初期に多かった勧告の代わりには提言が行なわれているという(朝日新聞2020-10-13)。用語の違いはよくわからないが、「答申」がないから活動がないというのは全くの言いがかりらしい。
追記3:問題になっている「…に基づいて」はいろいろな法律で使われている。上記で私は「内閣の助言と承認により」という憲法7条を引き合いに出したが、枝野・立憲民主党代表は、憲法6条に「天皇は国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する」とあるのを引いて、首相の論法に従えば天皇が首相の任命を拒否できることになってしまう点を指摘した(朝日新聞2020-10-29)。
「…に基づいて」という表現が法令用語としてはどう扱われているのかが朝日新聞2020-11-1に紹介されていた。「…により」「…に従い」とあれば任命や指名は拘束される。「推薦に基づいて」は「推薦により」に近いくらい拘束力が強い。より拘束力が弱い場合には「…を尊重」「意見を聴いて」などが使われるという。
労働組合法の、労働委員会のメンバーを経済団体や労働組合の「推薦に基づいて、任命する」という規定について、推薦通りに任命されなかったとして裁判になった事例では、任命権者の広い裁量を認める判決が多いらしいが、任命権者が「候補者を当初から審査の対象から除外」したり、特定の系統の労組に属することを理由に「候補者を排除することを意図」したりした場合は、裁量権の逸脱に当たるという基準が示された判例もあるという。
菅首相は法令の「文言のみで比較することは妥当ではない」と主張しているが、だとしても「候補者を当初から審査の対象から除外」したのでなく、思想信条を理由に「候補者を排除することを意図」したのでないことがわかる程度の理由説明はすべきだろう。
「みんなが同じ考えでなくてはならないのかな。そうじゃない人はいらないっていう世の中は、私はいや。」
舞台は第二次大戦中。主人公の妻が、戦争の役に立たない音楽などいらない、非国民だと言われたあとに漏らした言葉だ。念のために言っておくが、べつに脚本家が菅首相を批判するつもりで書いたせりふではない。戦時中の言論弾圧を批判する言葉が当てはまってしまうのが、アベ・スガ政権なのだ。
菅首相は、日本学術会議が推薦した会員候補105人のうち6人の任命を拒んでおり(朝日新聞2020-10-6他)、理由も明かそうとしない。しかも学術会議の推薦段階から首相官邸が選考に干渉する例は安倍政権下の2017年にすでにあったという(同一面)。
学術会議の定員は210人で、3年ごとに半数ずつ改選していく。新会員は、学術会議からの推薦に基づいて内閣総理大臣が任命するものとなっている。「法律上、首相が任命することになっているのだから推薦どおりでなくてもいいじゃないか」というのが首相の言い分だが、だからといって首相の好き勝手に選んでいいというものではない。憲法は天皇が「内閣の助言と承認により」国事行為を行なうと定めているが(7条)、「助言と承認」だからといって、天皇に行なわない自由があると解釈する人はいないだろう。
除外された6人には安倍政権での安保法制や共謀罪に反対の立場を取ってきた人も含まれ、首相は「まったく関係ない」と主張しているものの、政治的立場が理由という疑いが濃厚だ。そもそも菅首相は首相就任前の自民党総裁選の段階で、政権の決めた政策の方向性に反対する幹部は「異動してもらう」と言い放った(共同通信2020-9-13)。政治的理由でないというなら、任命を拒む正当な理由を公表すべきではないか。政府は人事に関してコメントは控えるとしており、たしかに個人の人格等の問題であれば公に取り沙汰することは控えるべきだが、日本学術会議法は「優れた研究又は業績がある科学者のうちから」候補者を選考すると定めており(17条)、人格云々の問題ではないはずだ。「優れた研究又は業績」を専門家でもない首相が判断するというのはそもそもおかしいのではないか。
首相が任命するよう法改正された1983年の国会答弁で当時の中曽根首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない。学問の自由、独立はあくまで保障される」と述べており、法文にも「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、政府からの独立を定めている。
最高裁判事についても、法律上は内閣が指名するものでも時々の政権による恣意的な選任を防ぐために出身枠が慣例として定められていたのだが、安倍政権はそれも破った(過去ブログ)。今回は慣例ではなく、法律に学術会議の「推薦に基づいて」と規定されているので、より悪い。
仮に法律的に首相による選択が認められていたとしても、権力は抑制的に行使するべきものだ。放送法に基づく総務相の停波発言もそうだったが、権力者が法律で認められたことは何でもやるという立場では、国民の自由はどんどんしぼんでいってしまう。
追記:菅首相は6人を除外して99人に絞られる前の105人の名簿は「見ていない」という(朝日新聞2020-10-11)。だとしたら、「学術会議からの推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」という法律に基づく任命を誰かが阻害したことになる。もっとも、菅首相も当初は自分の判断であったようなことを言っていたし、首相に105人の名簿を渡したとの証言もある。菅首相の発言が本当かどうか、というレベルから検証が必要だ。
追記2:学術会議は1950年代には研究費の配分にも強い発言力をもつなど存在感が大きかったが、政府の方針に反対することも多くて、新団体に徐々に機能が移行されていった。1959年には科学技術会議(現・総合科学技術・イノベーション会議)、1967年に学術審議会(現・科学技術・学術審議会)が作られ、学術審議会は政府が御用学者を並べることのできる場になっているという(朝日新聞2020-10-13)。近年では政府は学術会議ではなく、審議会に諮問するようになったため学術会議からの答申がない状態が続いているが、その代わり、もっと簡便な審議依頼とそれに対する回答は行なわれており、初期に多かった勧告の代わりには提言が行なわれているという(朝日新聞2020-10-13)。用語の違いはよくわからないが、「答申」がないから活動がないというのは全くの言いがかりらしい。
追記3:問題になっている「…に基づいて」はいろいろな法律で使われている。上記で私は「内閣の助言と承認により」という憲法7条を引き合いに出したが、枝野・立憲民主党代表は、憲法6条に「天皇は国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する」とあるのを引いて、首相の論法に従えば天皇が首相の任命を拒否できることになってしまう点を指摘した(朝日新聞2020-10-29)。
「…に基づいて」という表現が法令用語としてはどう扱われているのかが朝日新聞2020-11-1に紹介されていた。「…により」「…に従い」とあれば任命や指名は拘束される。「推薦に基づいて」は「推薦により」に近いくらい拘束力が強い。より拘束力が弱い場合には「…を尊重」「意見を聴いて」などが使われるという。
労働組合法の、労働委員会のメンバーを経済団体や労働組合の「推薦に基づいて、任命する」という規定について、推薦通りに任命されなかったとして裁判になった事例では、任命権者の広い裁量を認める判決が多いらしいが、任命権者が「候補者を当初から審査の対象から除外」したり、特定の系統の労組に属することを理由に「候補者を排除することを意図」したりした場合は、裁量権の逸脱に当たるという基準が示された判例もあるという。
菅首相は法令の「文言のみで比較することは妥当ではない」と主張しているが、だとしても「候補者を当初から審査の対象から除外」したのでなく、思想信条を理由に「候補者を排除することを意図」したのでないことがわかる程度の理由説明はすべきだろう。