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4. 「和泉式部日記」の恋の歌 和泉式部の恋の歌

4. 「和泉式部日記」の恋の歌 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  和泉式部の恋といえば誰しもが思いうかべるのは冷泉院の第四皇子 (帥宮:そちのみや)との短いながら充実した恋の日々であろう。「和泉式部日記」につぶさに記されたそのゆくたては、物語のように濃密な愛と、悩みにみちている。その出会いの場に交わされた歌は勅撰集にも採られ、「和泉式部集」でも、場面のある歌の冒頭を飾るものだ。しばらく「和泉式部日記」によって、歌の場面とともに鑑賞してみたい。

  和泉式部が敦道親王と知りあう前には、親王の兄為尊親王(弾正宮:だんじょうのみや)との恋愛があったことが知られている。冷泉院の第三皇子であるが、長保四年(1002)6月13日に薨去された。なぜかこの親王との愛の歌は残っていない。わずか一年ほどの交際の中で、式部は親の勘当をを受けたり、去って行った夫、橘道貞の第二子を出産したり、それが誰の子なのか糾弾されたり、親王が病に倒れたり、この恋はあまりにも波乱が多かったからであろうか。その為尊親王の喪が明ける頃、敦道親王から橘の花咲く一枝が届けられたことが恋愛のきっかけになった。

  「和泉式部日記」ではきわめて劇的にこの恋の幕開けを描いている。それは陰暦の4月10日余りの頃で、木々の茂りが濃くなり、築地の上に生えた青草も、すでに初夏の気配を感じさせるような或る日である。式部は為尊親王との「夢よりもはかなき」えにしを嘆きつつ物思いをしているところに、敦道親王から「橘の花」が届けられたという場面である。思わず「昔の人の」と声に出してしまう式部。「千載集」では親王から「いかがみる」と感想を問われて詠んだ歌として次の歌がある。

  かおる香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると  「千載集」雑上 和泉式部
  (昔の人の袖の香ぞするという古歌もありますけど、橘の香に故宮をお偲びするよりは、この橘に来鳴くほととぎすは、もしや故宮と同じ声の方ではないかと、語り合いたい思いです)

  式部は本当に故宮のことを語り合いたい気持ちだったかもしれないが、受け手としてはずいぶん積極的な返事に心ときめきしたことであろう。宮はすぐ返歌として「おなじ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らずや」とお書きになり、交際がはじまったのである。この頃の初々しい贈答歌を「新勅撰集」も収録している。詞書は簡潔に、「和泉式部につかはしける」とある。

  うちいででも ありにしものを なかなか(中途半端)に 苦しきまでも 嘆く今日かな  敦道親王

  今日のまの 心にかへて 思ひやれ 眺めつつのみ 過ぐす月日を  和泉式部

  親王は式部との交際がはじまると、たちまち苦しいまでの恋におちいってしまい、「こんな思いを口に出して言わなければよかった。ひとたび逢って語らってしまった後は、苦しい嘆きばかりの日々だ」と訴え、式部もまた、「そのように苦しく思ってくださる宮のお心にくらべて申しますなら、私もまた長い間、兄宮さまの愛を失って孤独な物思いに耐えつづけてきたのでございます」と応じている。

  とても順調にいきそうな恋のすべり出しだが、敦道親王の身分は高く(冷泉天皇の皇子)、気軽な「お忍び」も心にまかせることはできず、(敦道親王の)北の方も正二位大納言藤原済時(なりとき)の中の君であったから、はしたない振舞こそなかったが「夜毎に出でんもあやし」と思われるだろうし、宮も兄宮が御最期のころまで世間からそしられなさったのも、この和泉式部ゆえであった。と世間をはばかる心があったので、なかなか困難の多い恋であった。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」
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