イギリスの良いところだけ書いてきましたが、ご存知のとおり、イギリスは現在世界中の国家間トラブルになっているいくつもの大きな問題の根本原因を作った国でもあります。イギリスを見る目が偏らないように、ここではその一例を紹介します。渡辺惣樹氏の著作「英国の闇チャーチル」です。
前に投稿しました「マナーハウスとパブの文化」の中にもありましたが、「イギリス人の男女にとってスポーツである不倫が、長い間にわたって人々にとって主な活動」の事例にもなっています。
― 概要 ー
著者は、チャーチルの人となりを描きだすためにチャーチル一族の歴史から説明を始める。また、チャーチルは「十九世紀末から二十世紀初頭の英国文化の中から生まれた申し子(モンスター)」であった。そのため必然的に当時の社会の諸相も明らかにする必要があったとし、本書を通じて一般的に「紳士の国」としてイメージされている英国の真の姿を理解できるようにした。これによって多くの読者はこれまで抱いていた英国のイメージとの間に相当な乖離があることに驚かれることであろうという著者の「はじめに」の説明は納得できるものであった。
当時の知識人に大きなインパクトを与えた歴史書に「英国膨張史」があり、この書の特徴はイギリス興隆の理由をその民族(English race)の優秀性と卓越した政体に求めている点にあった。
実は、チャーチルは「マールボロ家(公爵)」の家系の人だが、父親が第7代マールボロ公の長男ではなかったので、マールボロ家を引き継ぐことはできなかった。それでもチャーチルは貴族の家系の優位さが目立つ生活をしていた。爵位はないが貴族であり、普通の「一般人」ではない。
当時の英国貴族の縁組は家同士の契約であり、自由恋愛による結婚はほとんどなかった。妻となった夫人の義務は世継ぎを生むことだった。その義務を果たし終えた女性は夫を愛していればそれでよいが、そうでなければ密かに愛せる男を求めた。そうした行為は不貞ではあったが、よくあることだった。英国の社交界では不貞関係の詮索がお楽しみの一つでもあった。
チャーチルの父親は、イギリスの荒っぽい性格の象徴であった。彼には目上にしっかりと仕えるという「精神力」に欠けていた。 その彼が、チャーチルの学校での不良ぶりを嘆き、士官学校に合格が決まってからも厳しい態度をとった。父親は、1893年10月、士官学校に入学したばかりのチャーチルをロスチャイルド家の総帥ナサニエル・ロスチャイルド卿に紹介し、チャーチルとユダヤ系有力者との関係が始まった。父親自身は梅毒に感染してからチャーチルの母親との性交渉をやめている。
そして、チャーチルの母親は米国ニューヨークの上流社会出身だが主流のニッカーボッカー系ではなかった。彼女は大勢の男性と付き合い、男なしで生きられる女ではなかった。情事が終わってもそれぞれの男性との「友情」は残り、大勢の「友情」で繋がった男性たちに、チャーチルの活動のいろいろな場面・状況に応じて援助を依頼し、チャーチルの出世・昇進に協力していた。
若いときのチャーチルの本音は、軍への帰属心(忠誠心)などはなく、「とにかく戦いの現場にでること、そうすれば軍功を立てるチャンスに巡り会え、政治家への道が開ける」という「勲章だけが狙いの男(メダルハンター)」であった。
第一次世界大戦は、反独の英国(チャーチルが主体)が、オーストリアとセルビアの間で生じたフェルディナンド暗殺事件を利用し、ドイツを悪役に仕立てて、世界市場で競合するヨーロッパ大陸諸国を破壊するタイミングを計って起こしたものだった。
参考:渡辺惣樹氏「英国の闇チャーチル」