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11-前半.紫式部の育った環境 父の転進 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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父の転進
このように、我が家は和歌の家なのだ。父為時も、歌人ではある。だが父は、和歌を作りながらも別の道を模索した。それが漢学、文人の道だった。なぜか。正直に言って、出世のためだと思う。もちろん、漢学が好きで才もあったからではあろう。
だがそれよりも、官途(かんと:官吏の職務、または地位。官職)に危機感を覚えたことが引き金となったに違いない。自らの父雅正(まさただ)のように没落の道に茫然と手をこまねくことも、兄為頼のように国司の官を得んとして権力者に近づくことも、父にはできなかったのだろう。
朝廷の文書は、すべて漢文で記されている。またその言い回しには、中国の史実や故事が盛り込まれることがある。したがって、漢文と中国史とは実務官僚の基礎知識である。父はそれを修めるため、大学の「文章道」の学生となった。
ここでの学業を終えれば、即戦力として諸国の掾(じょう)、つまり国府の三等官に推薦してもらえる。「文章生(もんじょうしょう)外国(げこく)」と呼ばれる制度だ。また「当識(とうじき)文章生」といって、中央の役所で判官(ほうがん)になれることもあった。
判官とは、諸司のやはり三等官だ。そう高い官職でもないが、それが出発点なのだから構わない。なにより阿諛(あゆ:顔色を見て、相手の気に入るようにふるまうこと)追従ではなく実力で官界に入ることができる。人付き合いの下手な父は、これにかけたのではないか。
だが、と私は思う。先に申した定子様の兄藤原伊周様も、漢文はお得意だ。しかし大学を出てはいない。それはなぜか。最初から将来が約束されているお家柄の方々には、学生の優遇制度など必要ないからだ。ならばそうした制度に父がすがったのは、それほどまでに兼輔の家柄がものを言わなくなったということなのだ。
貴族社会には、学生を指して言う決まり文句がある。「せまりたる大学の衆」。「貧乏学生」という意味だ。縁故がものを言う今の世、大学に入って学問を修めようなどという人間は、要するに官界に縁故を持たない貧乏人ばかりだ。
これを漢学では格好をつけて「寒家(かんか)」などというのだが。文章道を志した時点で、父は兼輔と定方の孫であることに見切りをつけた。自ら「寒家」自認組へと転進したのだ。
だが実は、文人には二つの種類があった。一種類は菅原や大江といった一族、つまり代々文人の家系で、大学寮の頭や博士など学問関係の要職を独占している世襲学者たちだ。彼らのことを「門閥」と呼ぶ。そしてもう一種類は、父のように文人の家柄ではない者たち。この人々は「起家(きけ)」と呼ばれる。
あの時代、起家の者が大学頭や文章博士になることは、余程のことでもなければ、まずないと言ってよかった。儒学の専門家になったからとて、起家の文人にはそこでの出世も限られているのだ。父にはそれが見えていたのだろうか。
私は、貧家出身の起業の文人を、私の「源氏の物語」に登場させた。「少女」の巻でのことだ。光源氏は三十三歳、須磨・明石での蟄居から戻り、今や朝廷の重鎮とんっている。折しも息子が元服し、光源氏は父としてその教育に当たる。私は、光源氏が息子を大学に入学させるという筋書きにした。
つづく
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