山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏は二条院を新築し、花散里など縁ある女たちを集める。その東の対(たい)には明石の君を招く予定だったが、明石の君は上京すればわが身の卑しさが目立って姫君の瑕(きず)になると恐れて応じない。とはいえこのまま明石に居続けては、これもまた姫君の育ちに差し障る。明石入道は熟考の末、明石の尼君が祖父・中務宮から相続した京の郊外、大覚寺の南にある大堰(おおい)川畔の邸宅を修復し、とりあえずの住まいとすることにした。邸宅は荒れて横領されかけていたが、明石入道が光源氏の威光をちらつかせると事が進んだ。こうして明石の君は、明石入道と別れ、母尼君と三歳になった姫君と共に上京し、大堰の邸に移り住む。明石の浜に似た松陰(まつかげ)の閑寂な御殿で、光源氏の訪れを待つ暮らしが始まった。
光源氏は桂の別邸や嵯峨野の御堂への用事にかこつけて紫の上をとりなし、大堰を訪れる。数日の滞在ではあったが、可愛く成長した姫君に会い、尼君をねぎらい、明石の君と愛を交わす光源氏に、明石の君の想いはひとしおであった。しかし光源氏は、彼の大堰滞在を知った公卿たちに連れ去られるように邸を発ち、桂で華やかな宴を開くいっぽう、明石の君へは後朝の文もおくれない。
二条院では紫の上がご機嫌斜めで待っていたが、光源氏は率直に、紫の上に姫君の養育をもちかけた。子ども好きな紫の上は乗り気だが、さて姫君をどう迎えるか。光源氏は思案を巡らせる。
**********
光源氏のモデルの一人とされる源融(とおる)は、嵯峨天皇の子だ。融といえば左京の六条に河原院を造営したことで知られるが、彼は嵯峨野にも「棲霞観(せいかかん)」なる山荘を建てた。その一角に阿弥陀堂を置いたのが、現在の嵯峨清凉寺阿弥陀堂の最初である。六条の河原院は、海に見立てた広大な池を持ち、その畔に陸奥塩釜の風景を再現していた。それは、帝の子ながら母の身分が低いため親王にもなれなかった融が、バーチャルで帝気分を楽しむためだった。だがそんな夢も、死後には持っていけない。煩悩を捨て、極楽に救いを求めなくてはならない。そのための御堂が、嵯峨野棲霞観の阿弥陀堂だった。
光源氏も、更衣の子のため親王にはならず、源の姓を与えられて臣下となり、実力で貴族の最高位に昇った。栄達の後は六条に広大な邸宅を営み、女性たちを集めて帝さながらの生活を楽しんだ。
このあたり、光源氏の人生は融のそれをしっかりなぞっている。そしてやはり、光源氏も嵯峨野に御堂を建てる。「松風」の巻でのこと。「大覚寺の南」という場所までがそっくりだ。ただ、建てた時の年齢が違う。融は人生の最晩年、政治を離れ風流に没頭するなかで棲霞観を営んだ。いっぽう「松風」の巻の光源氏は三十一歳。須磨・明石から帰り、これから政界にリベンジをかける時期だ。結局はその二十年後、彼も出家してこの御堂に籠ることになるのだが、この頃はまだまだ欲と元気でいっぱいの壮年だった。
光源氏は御堂建立を、家を数日空ける口実に使う。「嵯峨野の御堂で、仏様の飾りつけをしなきゃいけないから、二、三日かかるよ」。その実、会いに行くのは仏像ならぬ、上京してきた明石の君なのだ。紫の上はピンときて、「二、三日なんて言って、きっと小野の柄が朽ちるほど長居なさるんでしょう」。