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山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏は三十一歳の冬、明石の君に、姫君を紫の上の養女とすることを切り出した。明石の君は悩むが、娘の将来を思い涙ながらに決断。三歳の姫君は母と別れ、紫の上のもとで慈しみ育てられる。
年が明け、故葵の上の父で政界の重鎮であった太政大臣が亡くなる。さらに三月、三十七歳の大厄を迎えていた藤壺が、重い病に倒れた。藤壺は病床で、中宮という栄華と光源氏との密事という闇とを抱えた我が人生を振り返り、最期は光源氏に冷泉帝への献身を感謝して、灯火の消えるように亡くなった。
四十九日が過ぎた頃、十四歳の冷泉帝は、夜居(よい)の僧から自分の出生の秘密を告げられる。実の両親・藤壺と光源氏は、藤壺が冷泉帝を懐妊して以来即位するまでずっと、彼のために秘密裏に祈祷していたという。冷泉帝は、故桐壺院に思いを致すと同時に、実父・光源氏を臣下扱いしてきたことを親不孝と悔いた。
また自らの帝としての正当性にも不安を感じ、内外の文献を調べると、中国には王の血統が乱れた例があるが、日本の史書には書かれていない。ともあれ光源氏が帝位につけば父子関係も皇統も整うと考えた冷泉帝は、光源氏に即位を要請。光源氏は頑として拒むいっぽう、冷泉帝が真実を知ったと感づく。
秋、光源氏は梅坪女御(前斎宮:故六条御息所の娘)を訪ね恋情をほのめかすが拒絶されて、自分の若く向こう見ずな時代は終わったと実感する。機会を見つけては明石の君の大堰(おおい)邸を訪い、しみじみとした時を過ごす光源氏であった。
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出生の秘密。古今東西を通じて、”ドラマチックな物語”の王道といえば先ずこれだ。「源氏物語」の冷泉帝は、母の藤壺を喪ったのち、自らの秘密を知る。帝の御体(ごたい)を護持する夜居の僧から、こう告げられるのだ。
「わが君、故母宮はあなた様をご懐妊の折、密かに私に祈りをお命じになりました。源氏の君が須磨に流されると、重ねて祈りを命ぜられ、また源氏の君もかの地から祈りをお命じになり、それはあなた様がご即位なさるまで続けられたのです。その詳しい内容は・・」。老僧の口からしわがれた声で語られる驚きの事実。聞かされる冷泉帝にとってはもちろん寝耳に水のことだ。しかも冷泉帝は、思春期のただ中、十四歳という最も感じやすい年齢でそれを知らされたのだ。
日本では、史実として歴史書に載る訳ではないが、天皇家の秘事が噂として囁かれたことはあった。「源氏物語」を百数十年さかのぼる頃、陽成天皇(868~949年)をめぐっての風聞だ。
陽成天皇は清和天皇(850~880年)の長男だが、母の藤原高子(たかいこ)は入内の前に在原業平と恋仲だったといわれる。「伊勢物語」によれば二人は駆け落ちを図ったが、高子は兄弟により連れ戻された。美しい悲恋の物語だが、ここから陽成天皇は清和天皇の子ではなく業平の子だという噂が流れた。それが陽成天皇自身の耳に入ったこともあったかもしれない。
陽成天皇は成長につれて乱暴になり、即位後は「物狂帝(ものぐるいのみかど)」とまで言われるようになる。揚げ句には十七歳の時に、帝の位から降ろされてしまう。
さて、しかし「源氏物語」の冷泉帝は、ぐれることがない。それはなぜか。最も真っ当な答えは、彼が天皇にふさわしい「孝」の心を持った人物だったから、ということである。冷泉帝は秘密を知った時、養父・桐壺帝の心を思ういっぽう、光源氏にもすまなく思った。実の父なのに臣下として扱ってきたことを、子として申し訳なく感じたのだ。何よりも親を大切にしたい、孝行息子。それが冷泉帝のキャラクターなのだ。
また、冷泉帝が秘密を知った、あの老僧の言葉には、藤壺と光源氏から祈祷を依頼されたとあった。そしてそれは、冷泉帝の即位まで続いたと。冷泉帝にとって出生の秘密を知るとは、実父母の不倫よりも、光源氏から注がれていた父性愛に気づくということだったのだ。「源氏物語」はやはり、何よりも愛を描く物語なのだ。
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