ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

気の重さ2

2016-11-23 16:02:21 | ひとの幸福
『あーしようこうしようこうやってと言われて、そうしなくちゃと思うからなのか??

あのエネルギーに付いていけないからなのか???

気が重いということは・・しなくてはいけない、があるからだ

それ以外にない。

自分に無理をして頑張って合わせるからだ。

もう嫌になった、とか疲れたとか、を明るく伝える事か・・

相手を否定せず、自分は今出来ないと出すこと。

それ以外にこの解決法はない・・ということか。』

・・・・・

これは午前中に出した文章を書く前にメモ的に書いたものなんだけど、

こう思っても、そうなんだ!という深い納得がなかった。

で、頭を静かにして、ゼロから自分をただ観て、さっきのブログを書く展開になり、あぁなった。

こういう経過を見て思うのは、頭で理屈的に納得風になってもちっともすっきりしないこと。

「気が重いということは・・しなくてはいけない、があるからだ

それ以外にない。」

・・・最初からそういう結論を出している。

「自分に無理をして頑張って合わせるからだ」とも書いている。

「もう嫌になった、とか疲れたとか、を明るく伝える事か・・」

「相手を否定せず、自分は今出来ないと出すこと。」

「それ以外にこの解決法はない・・ということか」・・・

幾ら、こんなふうにわかった風に書いても、気の重さは変わらず続いていた。

何故そうなのか・・・自分の内側を観るというプロセスをしていなかったから、と思う。

以前体験したそういうプロセスの結果を覚えているというだけで、

内側を観るという静かな行為をしてない。

観るということは自分の心が~こうなってあ~なって・・いたなぁ・・

というプロセスを観るということと思う。

数学の問題で答えだけ教わっても、そうなるプロセスがわかってないと

ちっとも面白くない。

納得するにはプロセスが要るものだ。



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気の重さについて

2016-11-23 10:45:20 | 実例体験観察
小学一年生の孫がよく遊びに来る。

この子は芝居ごっこが好きで、それをおうちごっこと孫は言う。

まぁ、ままごとのようなものだ。

その孫と私が姉妹役になって二人で即興の芝居をする。

その役になりきって二人でストーリーを作りながら。

それが終わると工作だ。段ボールやら牛乳パックやラップの芯、

ペットボトルなんかを遊び用にとっておいてるんだけど、

それで彼女はスマホ風とかテレビ風とか、望遠鏡風とか、

わけのわからないものを作ったりする。

一人で集中してやっている。この時は楽。

それを使って邸宅を作ったりもする。

りかちゃん人形の家のようなものだ。

牛乳パックで家を作り、窓や玄関を作り、小さなベッドやらトイレやら流し台やらテーブルやら作って、

人間役も作って、出来るとそれでままごと遊びだ。

私もままごと遊びが好きだった。

いろんな役をやる、なりきる、というのが面白かったんだろうなぁと思う。

その役の名前、年齢、職業、家族、好み、何でもかんでも勝手に考えてつくる、それが面白いのかなぁ・・

隠れ家ごっこもよくする。

これは身体をちょこちょこ動かさなくちゃならないから、

長くやってるとハード。

高反発の3つ折のマットレスを横に立てて上にタオルケットを掛け、暗くし、そこに隠れる。

私も外でだけど隠れ家遊びもよくやったものだ。


こんなふうに書いてると楽しいだけのような感じを受けるかもしれないけど、

休みなしに今度こうしようあ~しよう一緒に遊ぼうの連続で、

疲れて来る。

そんな遊び自体は私好みで苦痛ではないはずなんだけど・・・

こんなことが重なって、その孫から遊びに行ってもいい?という声がかかると、

気が重くなってきた。


何故気が重くなるか、自分でわからなかった。

そんなことも自分でわからないのか!?今になるとそう思うんだけどね。


ノーと言わずに孫に合わせすぎるんじゃないか・・・

いや、言ってないことない・・・ちゃんと言ってる・・・

けど、ノーという時、(もう、この子イヤだぁ・・しつこい・・)

孫に対してこういう否定的な思いが出て来ていたなぁ・・・・

気が重いということ自体をなにかいけないかのように暗く捉えてる???!!!!!

あっ、そうだったんだ、という深い納得。

そこから自分を観てみた・・

気が重くなるのも当たり前だ、と気付いた。

あんなにエネルギッシュな子供と長時間対等に付き合うのは66才の私にはきついという、

今の私の心身にとって当たり前のことを知らぬ間に否定してる自分があったんだと思う。

一緒に遊んでいるうちに身体もきつくなってきて、

頭も疲れて来て、それを続けると思うと気が重くなるのは当たり前だという、

そういう在りのままの自分に気付いてなかった・・・

ここに来る前の十数年の暮らしで私の体力はかなり落ちたと思うしね。

こんなにハードなことする機会なんてなかったし。

こういうことで疲れてしまう新しい自分を知らなかった。


たった今、その孫から遊びに行ってもいいかという電話が入った。

咽喉も痛いし、遊ぶ気になれないので、

明るく、今日は遊べないと話せたよ。

しつこい子から又電話だ、というようなモワーッとするイヤな気分に襲われなかった。

何の憂いもなくことわれた。

そういう自分が嬉しいな。

在りのままの自分を否定してたから、

エネルギッシュな孫のことをしつこいだなんて否定的に見てたんだ。

いつも在りのままで居られる人から見たら、

こんなこと当たり前じゃん、といわれるようなことだね。うん。
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