ムカデとことこ

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相対と絶対

2012-11-11 15:59:48 | ひとの幸福
物を手に入れるにはお金を払うのが当然であるという正しさがある。

だがしかし、家族間ではこれが通用しない。

赤ん坊はおっぱいを飲むのにお金は払わないし。

大人であってもご飯を食べてもお金を払わない。

いや、給料を入れてるとかがあるかもしれないけど、

給料を入れてなくてもお金を払わず食べるだろう

いつでも、という点から考えると、

大昔、貨幣が無い頃はお金を払うということはなかった。

お金を払うというシステムが絶対のものとは言えないことがわかる。

今はこうしているというだけのことであると言える。

絶対の正しさとはいえない。

この他でもいろいろ時代限定・地域限定・年齢限定・身分限定・種族限定・性別限定というような正しさがあるけれども、

限定なし・条件なし、それが真理と言っていいのかもしれない。

太陽は東から上がるというのも地球では絶対的なことではあるけれど、

宇宙船という視点からは東からではなくなった。

“太陽が在る”これは絶対的だろう。

こんなことを言う人はいないだろうけど、「太陽が在る」という発言をする時、ひとはムキにならない。

絶対にあるんだ!なんて強い調子で言わない。

それで人をやり込めようとも思ってないし、正しい!と突っ走る事もない。

思うとしても、ただ、在ると穏やかに思うのだろう。

それが絶対だと誰でも知っているからだと思う。

人が正しさで突っ張ったり人をやり込めたりする時に、どうしてそういう強い調子になるのかといえば、

そういう正しさは条件付・相対の正しさであって、

無条件・絶対の正しさではないと心の奥底では知っているからなんじゃないだろうか。

絶対の正しさを言う時に穏やかなのは突っ張る必要がないからだろう。

偽物をなんとしても売りつけたい時には言葉や調子でどんなにコレが素晴らしいかを力説するけど、

本物だったら、ただ見てもらえばいい。言葉は要らない。それと同じで、

力でなんとかわからせようとするのは、その正しさが絶対のものじゃない事をひとは知っているからなんじゃないか。

無意識的に知っているんじゃないか。

潜在意識では誰でもが知っているんじゃないか。

さまざまな限定や条件のある正しさという旗を振りかざして、

ひとをやり込めたり、突っ走る時、そういう心の状態に人は必ずある種の気分の悪さ、機嫌悪さを感じる。

前に書いたけど、湯川博士のいう寒暖計だ。

機嫌、気分というのを持ってる全人類は本当の正しさ、絶対的真理を元々知っているんじゃないだろうか・・・なんて思う。

それを忘れているだけで。




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