「常に自己の相対性を反省しつつ、
一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。」
・・・「常識と非常識」より抜粋。
これはどういうことを云っているのか・・・
相対性とはコインの裏表。表があるということは必ず裏がある。
裏の無いコインは無い。
コインが在る、というのが絶対的ということだろう。
表と裏というのは視点がどこにあるかで決まる。
どの位置からの視点かによって、表裏がある。
高低上下左右美醜善悪も同じだ。
どの位置からという視点がなければ、在る・それが在る、だけかと思う。
在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・・?
自己の相対性を反省しつつとはどういうことか・・・?
相対性は相対性で反省することなんてなさそうだけど。
反省しつつとは反省しながらということで、・・・
相対性を利用しなければ絶対の世界に行かれない、
というのは自分でもたくさん経験してきた。
以前、前向き思考をする事が良いとしていた。当時はそういう自覚はなかった。
けれど、知らないうちにそれがあったので、
後ろ向き思考をすることを良くないと評価した。
自他を良くないと評価すると、視線が厳しくなる。
ひとの良くない事を非難する。自分のことなら自責の念に苦しむ。
良いというのは相対的な言葉で、
その裏には良くないがセットで必ず付いている。
物質的な世界は相対的表現が出来るものだからこそ、
私たちの思考や現象・物事は表現出来る。
善悪の相対性があることで、善を求めてしまう私たちはより良きに進めるんだけど、
善悪の評価をすることで私たちは苦しむ。
その苦しみから抜け出ることが出来るのは、
出来事や人が今、その姿をしている、そういう状態で在る、ということをわかることだ。
善悪の評価にとらわれている間はそれが見えない。
“在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・?”
と、さっき書いたように、やはりそういうことか。
「自己の相対性を反省しつつ、絶対の真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。」の文章が云っているのは、
“在るもの”を見出そうとする、そのこと自体が科学の本質と云っているんだろうか。
在るものはたくさん在るけど、知らないことばかりだと知っているそのことが、
科学、物事、人間界の本質を知る出発点なのかと思う。
あるものを知らないと知っていないと、知りたいということにはならないから。
一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。」
・・・「常識と非常識」より抜粋。
これはどういうことを云っているのか・・・
相対性とはコインの裏表。表があるということは必ず裏がある。
裏の無いコインは無い。
コインが在る、というのが絶対的ということだろう。
表と裏というのは視点がどこにあるかで決まる。
どの位置からの視点かによって、表裏がある。
高低上下左右美醜善悪も同じだ。
どの位置からという視点がなければ、在る・それが在る、だけかと思う。
在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・・?
自己の相対性を反省しつつとはどういうことか・・・?
相対性は相対性で反省することなんてなさそうだけど。
反省しつつとは反省しながらということで、・・・
相対性を利用しなければ絶対の世界に行かれない、
というのは自分でもたくさん経験してきた。
以前、前向き思考をする事が良いとしていた。当時はそういう自覚はなかった。
けれど、知らないうちにそれがあったので、
後ろ向き思考をすることを良くないと評価した。
自他を良くないと評価すると、視線が厳しくなる。
ひとの良くない事を非難する。自分のことなら自責の念に苦しむ。
良いというのは相対的な言葉で、
その裏には良くないがセットで必ず付いている。
物質的な世界は相対的表現が出来るものだからこそ、
私たちの思考や現象・物事は表現出来る。
善悪の相対性があることで、善を求めてしまう私たちはより良きに進めるんだけど、
善悪の評価をすることで私たちは苦しむ。
その苦しみから抜け出ることが出来るのは、
出来事や人が今、その姿をしている、そういう状態で在る、ということをわかることだ。
善悪の評価にとらわれている間はそれが見えない。
“在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・?”
と、さっき書いたように、やはりそういうことか。
「自己の相対性を反省しつつ、絶対の真理に近づこうとする努力の中にこそ、
科学の本質が見出される。」の文章が云っているのは、
“在るもの”を見出そうとする、そのこと自体が科学の本質と云っているんだろうか。
在るものはたくさん在るけど、知らないことばかりだと知っているそのことが、
科学、物事、人間界の本質を知る出発点なのかと思う。
あるものを知らないと知っていないと、知りたいということにはならないから。