ダライ・ラマの著書の中に、
「釈尊は経典の中で、『見ないことが、究極のありようを見たことである』
と述べられています。」というのがあった。
釈迦の「見ない」とは・・
どんな現象、対象に対しても、何の先入観もなしに
(これはなんだろう?)というまなざしで見ることがそれなのかと思った。
非難がましくなく、責める気持ちなど一切なく、
ただ、(これはなんだろう????)と。
去年ダライ・ラマの文章を読みながらブログに書きながら、考えて、
そういうことになるな・・と思ったんだった。
ちょっと書くと、
対象であるそれが何をしてるのかわからないから、何だろう?と見るわけだ。
それが何かわかっていたら、何だろう?という?は浮かばない。
何を思って何をしようとしてるのかわからないから、
何だろう?と見るわけだ。
対象を見聞きしたときに、「これはこういうことだ」なんて、
瞬時に無意識的に判断・解釈してしまうというのがよくあるというか、
私たち凡人はだいたいそうなってる場合が多いけど。
だから瞬時に腹が立つことが可能になるんだし。
何度も例として出している、昼日中の井の頭公園の性器出し男に、
(それが何なのかわからないというまなざし、
何を思って何をしようとしてるのだろう?)を向けたら、
その男は自分の性器をズボンにしまった。
そのまなざしは、対象である相手に、
(自分が今ここで、何のためにこうしているのか?)を問わせることになる。
その邪心のないまなざしがキッカケで相手は自分の心に問いたくなる。
自分は今ここで、何をしたくてこうしているのだろう??と。
すると、自発的にその人は究極のありように戻る。
釈迦が云っていたというのはそういうことなんじゃないかな。
世の中で酷いと云われる現象に際しても、
非難も邪推もない透き通ったまなざし(境地)で在ることは、
世界を変え得るキッカケになると思う。
邪心のないまなざしは愛から生まれる。
相手がどうしようと何を思おうと変わらないその境地には、
どうやってなるんだろうと考えると、
そのときどき、愛の方を選択したり選択しなかったりして、
選択したその結果を体験し、味わい、次に繋げる、そういうプロセスを経て、
“常に”愛の方を選択し続けるようになる、のかと思う。
心というものが相対的であるからこそやれることだ。
また、そう在るという強い意志が初めにあるからこそ出来ることなんだろう。
そして、いつも意識的で居ないとそうは生り得ないのかと思う。
やっぱり、釈迦が云ったという、
『見ないことが、究極のありようを見たことである』というのと、
湯川秀樹のエントロピーの話は繋がっている。
「釈尊は経典の中で、『見ないことが、究極のありようを見たことである』
と述べられています。」というのがあった。
釈迦の「見ない」とは・・
どんな現象、対象に対しても、何の先入観もなしに
(これはなんだろう?)というまなざしで見ることがそれなのかと思った。
非難がましくなく、責める気持ちなど一切なく、
ただ、(これはなんだろう????)と。
去年ダライ・ラマの文章を読みながらブログに書きながら、考えて、
そういうことになるな・・と思ったんだった。
ちょっと書くと、
対象であるそれが何をしてるのかわからないから、何だろう?と見るわけだ。
それが何かわかっていたら、何だろう?という?は浮かばない。
何を思って何をしようとしてるのかわからないから、
何だろう?と見るわけだ。
対象を見聞きしたときに、「これはこういうことだ」なんて、
瞬時に無意識的に判断・解釈してしまうというのがよくあるというか、
私たち凡人はだいたいそうなってる場合が多いけど。
だから瞬時に腹が立つことが可能になるんだし。
何度も例として出している、昼日中の井の頭公園の性器出し男に、
(それが何なのかわからないというまなざし、
何を思って何をしようとしてるのだろう?)を向けたら、
その男は自分の性器をズボンにしまった。
そのまなざしは、対象である相手に、
(自分が今ここで、何のためにこうしているのか?)を問わせることになる。
その邪心のないまなざしがキッカケで相手は自分の心に問いたくなる。
自分は今ここで、何をしたくてこうしているのだろう??と。
すると、自発的にその人は究極のありように戻る。
釈迦が云っていたというのはそういうことなんじゃないかな。
世の中で酷いと云われる現象に際しても、
非難も邪推もない透き通ったまなざし(境地)で在ることは、
世界を変え得るキッカケになると思う。
邪心のないまなざしは愛から生まれる。
相手がどうしようと何を思おうと変わらないその境地には、
どうやってなるんだろうと考えると、
そのときどき、愛の方を選択したり選択しなかったりして、
選択したその結果を体験し、味わい、次に繋げる、そういうプロセスを経て、
“常に”愛の方を選択し続けるようになる、のかと思う。
心というものが相対的であるからこそやれることだ。
また、そう在るという強い意志が初めにあるからこそ出来ることなんだろう。
そして、いつも意識的で居ないとそうは生り得ないのかと思う。
やっぱり、釈迦が云ったという、
『見ないことが、究極のありようを見たことである』というのと、
湯川秀樹のエントロピーの話は繋がっている。