ベンジャミン・リベットが行なった脳の実験で、
ぱっと何かを思った瞬間からその思いを受けての行為に移る間には
コンマ6秒だか8秒だか、
実験によっては数秒あるということが実証できたというのがあるらしいけど、
その短い時間が自由意志を働かせられる時間なのかと思う。
ベンジャミン・リベットも自由意志の問題がそこにあるんじゃないかと
思っていたというようなことを読んだことがある。
何かを見て「なんて悪いことしてるんだろう」と思った時に、
その思い(判断)のまま、
それを非難せずにはいられないとか、軽蔑せずにはいられないとか、
その行為をやめさせずにはいられないとかで、
突っ走ってしまうのは不自由意志といえるのかと思う。
そう行為をするか、しないか、選べることが出来るのは
上に書いたその短い時間を自分が捕まえられるかどうかだろうと思う。
自分の心の状態に意識が行っているかどうかだろうと思うんだ。
それが鍵なんじゃないかな。
人間の自由の問題については
科学的に片が付いてないというようなのを読んだことがある。
片がついてない、というのは片づけが終わってないということで、
まだ散らかっているということかと思う。
決定論では人間は自由意志なんかなくて、
無意識という怪獣からの指令に操られる小人のようなもんだ、
というような見解も読んだことがある。
(“わかっちゃいる”がやめられない)という人間の在りようが
それを示しているということなのかと思うけど。
でもわかったつもりでいるかもしれないけど、
本当は“わかってない”んだったら、
わかればやめられる、ということになる・・ね。
ぱっと何かを思った瞬間からその思いを受けての行為に移る間には
コンマ6秒だか8秒だか、
実験によっては数秒あるということが実証できたというのがあるらしいけど、
その短い時間が自由意志を働かせられる時間なのかと思う。
ベンジャミン・リベットも自由意志の問題がそこにあるんじゃないかと
思っていたというようなことを読んだことがある。
何かを見て「なんて悪いことしてるんだろう」と思った時に、
その思い(判断)のまま、
それを非難せずにはいられないとか、軽蔑せずにはいられないとか、
その行為をやめさせずにはいられないとかで、
突っ走ってしまうのは不自由意志といえるのかと思う。
そう行為をするか、しないか、選べることが出来るのは
上に書いたその短い時間を自分が捕まえられるかどうかだろうと思う。
自分の心の状態に意識が行っているかどうかだろうと思うんだ。
それが鍵なんじゃないかな。
人間の自由の問題については
科学的に片が付いてないというようなのを読んだことがある。
片がついてない、というのは片づけが終わってないということで、
まだ散らかっているということかと思う。
決定論では人間は自由意志なんかなくて、
無意識という怪獣からの指令に操られる小人のようなもんだ、
というような見解も読んだことがある。
(“わかっちゃいる”がやめられない)という人間の在りようが
それを示しているということなのかと思うけど。
でもわかったつもりでいるかもしれないけど、
本当は“わかってない”んだったら、
わかればやめられる、ということになる・・ね。