桜井邦朋さんという宇宙物理学者の「日本人の知的風土」というのを読んだ。
この人はアメリカのナサでの研究者であったり、
スタンフォード大学の客員教授とかを歴任して来た人だそうで、
日本人と欧米人との思考の違いなんかを目の当たりにする環境にいたようだ。
10年くらい前にこの人の一冊を読んだことがあり、
内容はすっかり忘れたけど、なにかしら惹かれるものがあり、
それで名前だけ記憶に残っていたので、この本を読もうかなと思ったみたい。
今回のこの本の中に「『思う』が論理力を破壊する」という章があった。
日本語には論理性が欠けていると指摘されることがあり、
(そんなことも私は知らなかったけれど)
その要因は日本語の語彙の用法にあるとこの人は云っている。
「文章でも会話でもほとんど意識することなく「思う」「思います」と語尾につける、
いうなれば悪い習慣がある。」と云っている。
「これから会議を始めたいと思います」とか、「頑張りたいと思います」
という例が上げられていて、
会議・・の方では(思います)は不要である、と言っている。
頑張り・・の方では(頑張ります・頑張りたいです)では何故いけないのかと思う、とある。
こういう用法は感情移入が関わっているので、
表現の面ではあいまいさがつい出てくることになり、
私たちの論理的な思考の展開を邪魔してしまうので・・・
といったようなことが書かれてあった。
感情がこもった表現を続けていたら日本人は情緒的で論理力がないと、
外国人からからかわれる事が消えないとこの人は憂えている。
このひとはこう考えているのだなぁと思った。
日本語に論理力がないとは私は思ってないけれど、
論理力が無いと思われるのに、日本語の話や文章を英語に翻訳するひとの力が無いせいもあるだろうとも思った。
私たちは通常、「私は女である」これに(思う)をつけることはない。
語尾に(思う)をつけるかつけないか、日本人は微妙に無意識的に判断している。
そのひとの心の状態が現れる、と云ってもいいと思う。
言葉は認識以外の何物でもないので、ある意味では
全てに(思う・思っている)をつけても間違いじゃないと思うけど、それだと混乱するし、
日本人は無意識のうちに上手に使い分けている。
「そこに花が咲いている」・・そこに花が咲いていても、
それに何の関心も無ければ「そこに花が・・」という言葉は現われないという意味で、
言葉は常に認識を表わすものだけれど、
この場合(思う)をつけないことで、自分の考えではないことを示している。
「あそこに花が咲いていると思う」・・言葉自体はもちろん認識だけれど、
(思う)をつけていることで今そこでの自分の思い・考えであることを示している。
「今から会議を始めたいと思います」という表現は日本人の謙譲の美徳が表れていると観る人もあるようだけど、
自分はこう思っているけれど、会場の皆さんの都合はそれでいいでしょうか、という含みがあるのかと思う。
もう少し待って欲しいという声があれば、待ちましょうというような暗黙の心が現れている言葉なのかと思う。
会議は皆でするものだから、皆の同意のもとでやりたいという心が言葉に表われている。
私はそんなふうに思う。
そう発言したひとのその時の心にそれがあったかなかったかはわからないけれど、
言葉がそう言っている。
「あそこの鰻美味しかったよ」という言葉でも、
相手がアンタがそう言ったから行ったけどちっとも美味しくなかったわ・・なんてことを言いそうなひとには、
「・・と、私は思うけど、あなたがどう思うかはわからないけどね」・・・なんて付け加えたくなるし、
そんなことわかっていると思われるひとには「美味しかったよ」だけで終わる。
こんな日常の暮らしの中でも、存在と認識の相異を私たちは言葉で表わしている。
日本語の話し言葉って、かなり哲学的な言葉じゃないのかな。
欧米人は日本語で育ってないからそういった細かなニュアンスはわからないのかもしれないね。
さて、日本語は論理的でないという指摘はどうなんだろう???
この人はアメリカのナサでの研究者であったり、
スタンフォード大学の客員教授とかを歴任して来た人だそうで、
日本人と欧米人との思考の違いなんかを目の当たりにする環境にいたようだ。
10年くらい前にこの人の一冊を読んだことがあり、
内容はすっかり忘れたけど、なにかしら惹かれるものがあり、
それで名前だけ記憶に残っていたので、この本を読もうかなと思ったみたい。
今回のこの本の中に「『思う』が論理力を破壊する」という章があった。
日本語には論理性が欠けていると指摘されることがあり、
(そんなことも私は知らなかったけれど)
その要因は日本語の語彙の用法にあるとこの人は云っている。
「文章でも会話でもほとんど意識することなく「思う」「思います」と語尾につける、
いうなれば悪い習慣がある。」と云っている。
「これから会議を始めたいと思います」とか、「頑張りたいと思います」
という例が上げられていて、
会議・・の方では(思います)は不要である、と言っている。
頑張り・・の方では(頑張ります・頑張りたいです)では何故いけないのかと思う、とある。
こういう用法は感情移入が関わっているので、
表現の面ではあいまいさがつい出てくることになり、
私たちの論理的な思考の展開を邪魔してしまうので・・・
といったようなことが書かれてあった。
感情がこもった表現を続けていたら日本人は情緒的で論理力がないと、
外国人からからかわれる事が消えないとこの人は憂えている。
このひとはこう考えているのだなぁと思った。
日本語に論理力がないとは私は思ってないけれど、
論理力が無いと思われるのに、日本語の話や文章を英語に翻訳するひとの力が無いせいもあるだろうとも思った。
私たちは通常、「私は女である」これに(思う)をつけることはない。
語尾に(思う)をつけるかつけないか、日本人は微妙に無意識的に判断している。
そのひとの心の状態が現れる、と云ってもいいと思う。
言葉は認識以外の何物でもないので、ある意味では
全てに(思う・思っている)をつけても間違いじゃないと思うけど、それだと混乱するし、
日本人は無意識のうちに上手に使い分けている。
「そこに花が咲いている」・・そこに花が咲いていても、
それに何の関心も無ければ「そこに花が・・」という言葉は現われないという意味で、
言葉は常に認識を表わすものだけれど、
この場合(思う)をつけないことで、自分の考えではないことを示している。
「あそこに花が咲いていると思う」・・言葉自体はもちろん認識だけれど、
(思う)をつけていることで今そこでの自分の思い・考えであることを示している。
「今から会議を始めたいと思います」という表現は日本人の謙譲の美徳が表れていると観る人もあるようだけど、
自分はこう思っているけれど、会場の皆さんの都合はそれでいいでしょうか、という含みがあるのかと思う。
もう少し待って欲しいという声があれば、待ちましょうというような暗黙の心が現れている言葉なのかと思う。
会議は皆でするものだから、皆の同意のもとでやりたいという心が言葉に表われている。
私はそんなふうに思う。
そう発言したひとのその時の心にそれがあったかなかったかはわからないけれど、
言葉がそう言っている。
「あそこの鰻美味しかったよ」という言葉でも、
相手がアンタがそう言ったから行ったけどちっとも美味しくなかったわ・・なんてことを言いそうなひとには、
「・・と、私は思うけど、あなたがどう思うかはわからないけどね」・・・なんて付け加えたくなるし、
そんなことわかっていると思われるひとには「美味しかったよ」だけで終わる。
こんな日常の暮らしの中でも、存在と認識の相異を私たちは言葉で表わしている。
日本語の話し言葉って、かなり哲学的な言葉じゃないのかな。
欧米人は日本語で育ってないからそういった細かなニュアンスはわからないのかもしれないね。
さて、日本語は論理的でないという指摘はどうなんだろう???