これも湯川秀樹の言葉です・・・
「精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。
それはある絶対的な直観的な知識を意味するであろう。
それこそ真の知識であるかもしれない。
否、それは“単なる知識以上のもの、
人格的行為と直接結び付いたもの”であるかもしれない。
私はそれを何と呼んでよいか知らない。
・・・・いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで、
途方に暮れようとする行き詰まりから、
自ら精神の世界が開けて来るのである。
それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。
主として心理学によって研究されるべき領域である。」
・・これは昭和18年3月に発表されたらしい『物質と精神』からの引用です。
この中の“単なる知識以上のもの、人格的行為と直接結び付いたもの”
これが云っているのって、ある境地のことじゃないか・・・
人格的行為であっても非人格的行為であっても、
行為は境地から発生するものだから。
ここで彼が言っている、“単なる知識以上のもの、
人格的行為と直接結び付いたもの”とは、
キリスト的境地、釈迦的境地、無我の境地と云ってもいいし、
究極の境地、自他一体の境地、ある存在の状態、
潜在意識のあるプログラムが作用する状態というか、
心境の状態がある段階に達したもの・・・とか。
この境地がエントロピーが増えも減りもしないという状態なんじゃないか・・・
この本の『エントロピー原理とは』という章の最後に、
湯川秀樹が言ってる言葉がある。
「・・・法則が何らかの形で現実世界で具現されていると考えるか・・・」。
「精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。
それはある絶対的な直観的な知識を意味するであろう。
それこそ真の知識であるかもしれない。
否、それは“単なる知識以上のもの、
人格的行為と直接結び付いたもの”であるかもしれない。
私はそれを何と呼んでよいか知らない。
・・・・いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで、
途方に暮れようとする行き詰まりから、
自ら精神の世界が開けて来るのである。
それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。
主として心理学によって研究されるべき領域である。」
・・これは昭和18年3月に発表されたらしい『物質と精神』からの引用です。
この中の“単なる知識以上のもの、人格的行為と直接結び付いたもの”
これが云っているのって、ある境地のことじゃないか・・・
人格的行為であっても非人格的行為であっても、
行為は境地から発生するものだから。
ここで彼が言っている、“単なる知識以上のもの、
人格的行為と直接結び付いたもの”とは、
キリスト的境地、釈迦的境地、無我の境地と云ってもいいし、
究極の境地、自他一体の境地、ある存在の状態、
潜在意識のあるプログラムが作用する状態というか、
心境の状態がある段階に達したもの・・・とか。
この境地がエントロピーが増えも減りもしないという状態なんじゃないか・・・
この本の『エントロピー原理とは』という章の最後に、
湯川秀樹が言ってる言葉がある。
「・・・法則が何らかの形で現実世界で具現されていると考えるか・・・」。