パソコンの前の窓に隣の家が見える。 瓦を見た。
例えばここに誰かが来て、その同じ瓦を見たとき・・・
私が見た瓦と誰かが見た瓦はちがう。
見る という現象は同じでも、見たものはちがう。
観たものと書いたほうが適切な表現なんだろうか?
ひとは観ることしか出来ない のだろう・・
見る とはどういうことなのか?
在る と 在ると思う の決定的なちがい。
在る と表現すること自体 在る という認識なんだものなー
ある本に、地球人よりもっと意識的に進化している別の生命体は言葉は使わない、とあった。
誤解がうまれざるを得ない言葉によるコミニュケーションは
コミニュケーションの形としては未熟なもの、 とあった。
以心伝心、かどうかわからないがテレパシーのようなもので交流をする・・とか。
真偽の程はわからないが合点がいく話だと思った。
(あれ、取って)と思う、その意識の内容が相手に届く・意識が伝わる。
相手に依頼する、ことが伝わるのであって、独り言が伝わることは無い。
今の世界に起こっている揉め事はかなり誤解、曲解によるものだと思うので、
そんなテレパシーで意志が伝わったら問題はぐんと減りそう。
そう成る、そう人類が進化するというのは、今の次元の世界では無理と思う。
山岸さんが言った世界が引っ繰り返る とはどういうことなんだろう。
こんな事考えるよりもっと身近なことやれよ、みたいなのもあるけど、探求したくなる。