洗濯物を干しながら、思った。
ピアノを弾こうとして、うまく弾けない時、(イヤッ!)と心がなることと、
洗濯ハンガーのピンチが絡まって、(イヤッ!)と心がなることは同じだなと思う。
洗濯ハンガーのピンチ絡みについての思いについては以前に書いたけど、
それを書いたことは私にとっていい経験だったよ。
やろうとすることが出来ない時に(イヤッ!)となるような心の状態に自分が在るということなんだ。
その時点・瞬間にそれを(出来ない自分)という事実を受け入れられない自分で在ること。
ここで自分が二つに分かれている。出来ない自分とそれを受容できない自分との。
実行者・身体(出来ない自分)と観察者・こころ(それを観ている者)とがいるわけだけど、
観察者が観察者になってない。判断者になっている。
観察者が観察者になっていたら、自分は二つに分かれていない、“一つという状態“になっていると云えると思う。
これは無邪気という言葉でも表わせる心の状態かな。
(出来ない自分)を出来ないのだと“受容している状態”。
在りのままでいい、というその在りのまま状態。
自分を責めるという心境などもこういう状態になってないということだろうと思う。
また、この観察者が真に観察者になることが、
常に自分の意識を自覚している状態ということかと思う。
ピアノを弾こうとして、うまく弾けない時、(イヤッ!)と心がなることと、
洗濯ハンガーのピンチが絡まって、(イヤッ!)と心がなることは同じだなと思う。
洗濯ハンガーのピンチ絡みについての思いについては以前に書いたけど、
それを書いたことは私にとっていい経験だったよ。
やろうとすることが出来ない時に(イヤッ!)となるような心の状態に自分が在るということなんだ。
その時点・瞬間にそれを(出来ない自分)という事実を受け入れられない自分で在ること。
ここで自分が二つに分かれている。出来ない自分とそれを受容できない自分との。
実行者・身体(出来ない自分)と観察者・こころ(それを観ている者)とがいるわけだけど、
観察者が観察者になってない。判断者になっている。
観察者が観察者になっていたら、自分は二つに分かれていない、“一つという状態“になっていると云えると思う。
これは無邪気という言葉でも表わせる心の状態かな。
(出来ない自分)を出来ないのだと“受容している状態”。
在りのままでいい、というその在りのまま状態。
自分を責めるという心境などもこういう状態になってないということだろうと思う。
また、この観察者が真に観察者になることが、
常に自分の意識を自覚している状態ということかと思う。