海と空

天は高く、海は深し

12月19日(木)のつぶやき

2013年12月20日 | Myenzklo

主権者と国会という合法的なる権力の中心点を承認し、このもとに服属して「国民の自由」に転換しなくてはならないけれども、この時にそれは多様性という外国には見られぬドイツ国家の特徴をもたらすべきものなのである。(s 356 )


おのれのもとにあることであるには相違ないとしても、他のもとにあることに媒介せられて初めて真実の自由であり実質的な実在的な自由である。政論の実現せんとするのがこの自由であることはいうまでもない。しかし、それはかかる自由を正義心とか協同性というごとき倫理的な心情や行為によって a


実現せんというよりか、むしろ現実的な自由をまさに現実に可能ならしめるような制度の設定によってなさんとするものである。政論の目ざす自由は、心情や観念の上にとどまるものではなく、現実に効果をもたらすところのeffective freedom(ジョン・デューイ)なのである。b


しかるに国家における制度の根本的なるものは憲法であるから、いずれの政論も憲法批判を行なうのである。
批判は理性の立場からなされる。けだし実質的自由を得させるものは理性だからである。政論の四が「理性の権利にしたがって承認せられるもの以外のいかなるものも憲法においては有効なものとして


承認せられてはならない。」といっているのは、このことを示している。しかし、この理性はまさに理性であって悟性ではない。悟性がいかなる時代にも通じる原理・原則を立てるもの、またこれに終始して展開することのできないものであるのに対して、理性とは史的段階に即した原則を立てるのみならず、


さらにそれぞれの具体的状況にしたがって、それを展開し組織することのできるものである。ここに「史的段階」とは、フランス革命によって開始せられた時代――歴史哲学講義におけるクリスト教的――ゲルマン的時代に属する――であり、原則とは人権宣言において表明せられているようなものであるが、


このことは政論の四が基本的には賛成しているところのフリードリッヒ王の憲法原案のいかなるものであったかを想起するならば、疑うべくもない。しかし原則が一定の史的段階に属するものであるとしても、理性はこれに終始するものではなく、さらに具体的状況に即してそれを展開し


組織づけうるものであるが、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするのである。 (ibid s 357 )※この個所からも、現行日本国憲法に対する根本的な批判を展開する場合の、必要な立場を再確認してゆく上でも有効であるだろう。現行日本国憲法がいかにして現実の


国家に歪みをもたらし、その不全を来しているかを論証する義務がある。現行の日本国憲法の軍備放棄条項にしても、私が少なくとも大学教授以上の批判的能力を形成することなくしては、すべては、犬の遠吠えになることを自覚しておく必要があるだろう。どのように徹底的に研究を組織立て、


体系づけてゆくか、その批判的な研究が本当に価値のあるものでありさえすれば、最終的には出版の道も開かれよう。いずれにしても、批判的な研究の水準を最高のものとしてゆかなければならない。


実質的自由を実現するために必要な、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするものであるが、かかる立場から見れば数多くの古法がある。古法も、それが発足し、ないし制定せられた当時にあっては、それなりの「条件」なり「基底」なりをもっていたが、時代がもはや変わっている以上、


形式の上では確かに法であり、この限り肯定されるべきポジティーフなものであるに相違ないとしても、時勢が移り、それを乗り越えて進んでいる生きた現実から見れば、もはや国家をして国家たらしめず、それの目的であるところの実質的自由を抑圧するものとして、却って否定されるべきたるにすぎぬ。


いずれの政論も、このようなポジティーフなものを批判している。而して、ポジティーフなものが理性の立場からすれば法として存続し得ぬにもかかわらず、依然として法の効力を持つのは、それが一部のものの特権だからである。だから、いずれの政論も特権の批判であり、


特権打破の雄叫びをあげるものである。政論の一つはベルン共和制のじつはグラン・コンセイユを中心とする貴族制に過ぎぬことを、政論の二はベルテンベルグ公国の人権を無視した絶対君主制と民会幹部や都市当局の特権とを、政論の三は「ドイツ憲法」なるものが当代から見れば、


ドイツの国家でないのを宣言したものであることを、とりわけウェストファリアの和約は「国民の自由」ならぬ「議員の自由」に固執してドイツの没国家性(上巻153頁)を組織したものであることを、政論の四は旧民会幹部のブルジョワ貴族政治を、また書記の貴族政治を、政論の五は議会を支配する


地主貴族(ランロード)及びこれと結託せる国教会の特権を、それぞれ解明し批判せんとしたものである。この際解明の仕方は決して思弁的なものではなく、むしろ実証的経験的であって、ヘーゲルの「理性」が経験主義とも十分に調和しうべきものであることを示している。(ibid s 358 )


ヘーゲルの実玄実現せんとするのは、実質的自由であるが、しかし、彼は道義心に訴えるにと止まるのではなく、むしろしかるべき制度の設定に、したがってまた憲法の改正によってそれを実現せんとするのである。ところで改正には民意に訴えるだけではなく、国家権力が必要である。


権力の必要は政論三に至って初めて自覚せられたが、このさい我々は次の三つのことに注意するべきである。政論三は国家にとって絶対に必要なものと民衆の「社会的結合」(上巻七九頁)にとっては不可欠であっても国家にとっては必ずしも必要でないものとを峻別し、権力的に統一づけることは、


これを厳重に前者のみにかぎり、後者はこれをできるだけ民衆の自由と自治とに委ねるべきであるとしている。国家の目的は対外的対内的な安全を期することであり、したがって国家はこの目的のための兵力と財力とを備えることを、またこれらを調達するために必要な法律を国会との協同において


制定することを、調達し制定するための政府組織を持つことを必要とするものであるが、国家活動は厳重にこの範囲に留められるべきだというのがヘーゲルの意見である。だから彼は国家的統制を国民生活の隅々まで及ぼすべきだという、いわゆるetatismeを主張せんとするものではない。359


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