国家組織の中心点は君主と国会である。国会をもって国家に不可欠のものとすることの近代性は自明であるが、君主については注意が必要である。すでに政論三においても、ヘーゲルが君主制に傾いているのは事実であるが、しかし、主権者を世襲君主に限ったわけではない。
(s 359 )
なぜなら、主権者の存在そのものは国家にとって不可欠ではあっても、主権者が単数であるか複数であるか、誕生によってその位置に就くか選挙によるかも国家にとって必要欠くべからざるものではなく、むしろ道でもよい区別であるとされており(上巻66頁)、
したがって共和制(上巻159頁)も肯定せられているからである。だから彼が世襲君主制に傾いたのは、ドイツの具体的事情による偶然であって、国家理論そのものからすれば必然ではないのである。(ibid s 359 )
※この個所の金子武蔵氏の注釈は、重要だろう。
世襲君主制と共和制については、悟性的にではなく理性的に判断されるときには、特定の国においては、「必然的に」規定されるのではないだろうか。つまり、我が国のような「個別具体的な特殊な国家」においては「必然的に」世襲君主制が帰結されるのではないだろうか。少なくともヘーゲルの「法の哲学」
においては、近代国家においては「立憲君主主義国家体制」の必然性については「論証」されているのではあるまいか。このヘーゲルの「政論」と「法の哲学」の関係についても、今一度検討される必要はある。金子氏自身はどこまで「法の哲学」を研究された上での発言であるのか、それはわからない。
私の今後の研究課題も、ヘーゲルの「法の哲学」の検証とその止揚を目的とした現代国家形態の概念についての証明が中心的な課題であることは予想されることである。
とにかく権力がある。これによって安全のために必要な限りの兵力と財力とが調達せられ、またこれに必要な法律と組織とへの服従が要求せられるのだから、強制のあるのはもちろんである。のみならず「国家」外の「社会的結合」への干渉もある。例えばかっての帝国都市(上巻187頁)に見られるごときa
なはだしいオリガーキーの跋扈するとき、また例えば工業が農業を不当に圧迫し農民が極端な貧窮に陥るというような場合(74頁)がそうである。しかし、対外的対内的に安全が保たれ、また特権や専横が打破せられることによってかえって自由が――ただし実質的自由―がある。だから政論三は b
「確乎たる統治は自由のために必要である。」(上巻185頁)とも、「代議団体なくしては、いかなる自由ももはや考えられない。」(同上)ともいっている。かくて権力による強制があり干渉があっても、これはむしろ自由のためのものであるが、これが注意すべき第二の点なのである。360
本来の国家目的にとって絶対に必要であるもの以外の職務――地方団体や職業団体の職務――はできるだけ国民の自由と自治とに委ねるべきであるのは、むろん基本的には、すでにいったごとく自由がそれ自体において神聖だからである。しかし、ヘーゲルはまた利益もあげている。利益としては、自治に、a
名誉職に委ねるときには運営費や人件費を支払わなくともよいこと、公務に従事することによって国民の知的道徳水準が向上すること、信頼されているところから国民の自敬の念が養成せられ、一朝ことあることには自発的献身を期待しうること、また国民が幸福と繁栄とを享受しうること(上巻75-78頁)
をあげている。しかし、かかる利益が「全能不敗の精神」(上巻78頁)を生むというに至っては、利益という相対的理由もいつしか「自由がそれ自体において神聖である。」という絶対的理由と重なり合い、両者間にはほとんど区別がなくなっている。このことは、ヘーゲルの「理性」なるものが a
経験主義や実証主義と相容れぬものでないのと同じく、功利主義との関係もまた同様であることを示しており、英訳の解説者Z.A.Pelcznski がベンタムとの類似を指摘するのも必ずしも理由なしともしない。かく「理性」の立場が利益の立場とも相容れぬものでないことに注意を促したく思うb