(承前)心中天網島は、この世の倫理規範が成立している世界と、その向こう側の地獄の美世界の両方を描いていて、主人公(とくに男)がそのもう戻れない境界線を渡るところが素晴らしく美的に描かれていた。かつどっちの世界が良いとも言ってない。この踏み越えの感覚を近松は描きたかったに違いない。
それは独立の個体性が先ず脱却しなければならない内容で、当初の形式としては単に形式的で皮相な擬人という形式をとっている。この単なる自然力を退け、対立と抗争を通じてこれを超克することこそ、古典的な芸術がそれによって実現されうべき重要な点である。(ibid s 1137 )
崇高の芸術の根底にある世界観では、またある程度はインドの場合にさえも、それ自身独立に完成した、感覚性を超越した神が万物の始元であったが、今吾々の問題とする段階では、諸々の自然神、しかもなによりも先ず自然の普遍的な諸力が発端になっている。・・・これらが先ずあってそこからはじめて a
ヘリオスなどのような、より明確な諸力が生成し、それが後の精神的に個体化された神々の自然的な基礎となる。ここに想像によって案出され、芸術によって型態化された神統系譜論と宇宙生成論が出てくる。然し、そこに登場する最初の神々は、一方では直観の対象としてはっきりと規定されるに至らない。b
それらの諸力は、第一には大地や精神に関する威力であって、精神的・人倫的な内容を欠き、従って無拘束であり、奇形で粗野猥雑ものである。・・・自然の生命は実際に「時」の力に従っており、ただ刻々に移ろいゆくものを生じせしめるだけだからである。c美学vol.Ⅱs1139
一つの民族も歴史以前の時代にはただ一つの自然発生的・血族的共同体であって、国家を成すに至らず、何らの確然とした目的を追究せず、「時」の没歴史的な威力に委ねられている。【掟が出来、人倫が定まり、国家が成立するに至って、はじめて人類の消滅流転の内に存続する、aする】以前にも
確固たる基礎が定立されるようになる。古典的芸術形式の初段階の本質をなすものとしておいた変形の否定的な関係が、この芸術形式の本来の中心点となる。ここでは一般に擬人という形で神々が表象され、その前進の運動は人間的で精神的な個体性に向って押し進められる。b
しかし、本質的な進展は自然から精神へ、――古典的芸術にとって真の内容であり、本来の形式である精神へと向うものである。この進展と、その成り行きを認めるよすがとなる種々の闘争は、新しい神々が古い神々に対する永続的支配を確立するための闘いの場において展開される。ibid s 1147
※ヘーゲル哲学の論理的な進展の核心は、自然から精神へ、とおいう移行であるが、それは、法哲学においては、家族から市民社会へ、さらに国家への移行として現れる。家族は、感情や血縁や愛であるが、国家は、自覚的な法律的な公共生活であり、人倫生活である。国家の本質が中心的なテーマである。
※現代の一般的な憲法の本質論は、国家権力の制約説として認識されている。しかし、憲法の本質はそのような低い理解の段階に止まるものではない。憲法は、以前に考察したように、自然憲法と実定憲法の差違を、別な観点から言うなら、理性憲法と悟性憲法の差違としても捉えられなければならない。
※ここでの論考の課題も、悟性的な憲法の典型でもある現行の日本国憲法をアウフヘーベンして、理性的憲法へと憲法改正を図ることが課題であることは言うまでもない。絶対を課題とする哲学は、理性としての国家、ヌースとしての国家に到達するまでは終息することはない。この課題を追究するのは法律家
ではなく哲学者である。確かに現在の安倍内閣は従来の凡庸な歴代内閣の総理大臣に比して、戦後の日本国の国家体制の悟性的な性格を誰よりもよく認識している。しかし、まともな哲学者をブレインとしても持たない、自民党政府が構想した改正日本国憲法草案は、明治憲法の足許にも及ばない。
なぜ、こういうことになるのか。現代日本の政治家一般の思想的な貧困、哲学の貧困が根本原因である。戦後の日本国憲法の三大原理の、平和主義、国民主権(民主主義)、基本的人権、個人主義などの法思想の背景をなす根本的原理である、「法実証主義」を克服する論理を誰一人として持たないからだ。
現実的歴史において、ソ連邦、東ドイツ、アルバニアその他共産主義諸国の消滅によって、マルクス主義諸国家の歴史的な崩壊と破綻は、現実によって証明されている。しかし、その哲学的な論証は未だなされているとは言い難い。現実によって証明されたものを論理で確証することが哲学の仕事である。