海と空

天は高く、海は深し

4月10日(水)のつぶやき

2013年04月11日 | Myenzklo

神託の本質的な点は、ただ次の一事にある。即ち古典芸術においては・・・自然現象がそれ自身としてあがめられることは、もはや無くなり、神々自身が知と意志の主体として、自然現象を通じて人間にその叡智を告示するのである。(ibid s1134)※ヘーゲルはやはり深い。「神託」の概念をa


もっとも良く説明している。¥神々が神意を啓示するために使った表徴は、おおむね至極単純なものであった。・・デロスでは月桂樹がざわめくのも、同様の意味をもっていた。が、かような直接の自然音の外に人間自身も、正気を失ったり激しい興奮に駆られたりして、悟性の冷静な思慮をそなえた状態からb


神懸かり的熱狂の自然的状況へ移る限りでは、神託を語るものとなる。デルポイの巫女ピュティアが靄のために気が遠くなって、神託の言葉を語ったとか、トロポロニオスの洞穴の中で、神託を問い求める人が幻影を見て、その解釈から答えを得たとかいうのはその例である。(ibid s1135 )


(ロ)神託の外的表徴にはもう一つ付け加えるべき第二の面がある。神託においては神は全知者であると信じられ、従って知の神アポロンの神託がいとも霊験あらかたなものとされるのであるが、然し、この神がその意志を告知するのは、所詮、自然の声とか、言葉の脈絡無き音とかいうような、全く無限定のa


自然的形式においてである。このように型態が不明確であれば、これに込められた精神的内容そのものも曖昧であり、従って解釈と説明を必要とする。(ハ)この説明は、はじめは単に自然的形式において与えられた神の告示を精神的に解して意識にもたらすものであるが、それにも拘わらず、やはり曖昧で b


二重の意味をもっている。なぜなら神の知と意志の向うところは具体的普遍性であり、神託によって啓示される勧告や命令も同様のものでなければならないが、普遍者は一面に偏した抽象的なものではなく、ある一つの面とそれとは別の面をあわせ含んでいるからである。神託が古典的芸術の内容の一面をなしb


重要性を持ったものとなるのは、彫刻においてでは無く、詩、とくに劇詩においてである。然し、古典的芸術では人間の個体性がまだ最高度の内面性を達成するにいたらず、主体が純粋に自発的に行為への決断を下すに至らないので、神託がやはり一つの本質的要素としての地位を保持している。1137


1137注**周知の如く「良心」は『精神現象学』や『法哲学』における一つの基本概念であるが、『哲学史』においてもヘーゲルは「何が正しいものであるかを知ること(Wissen)」が「良心(Gewissen)」と呼ばれると規定し、ギリシャ人がなおこの「良心」をもっていなかったことを a


指摘している。けだし彼等はまだ純粋に自己の確信に基づいて決意する精神の域に達しなかったのである。b1244※やはりヘーゲルは理論的能力の研鑽には不可欠の対象ある。すべからく、この目的のもとに行なわれるべきものである。これは西行の和歌やバッハの音楽の解釈の基礎を得るのに有効である。


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