>まことにこの方法という面から本書(法の哲学)が理解され評価されることを、私はとくに望みたい。“がんらい本書が眼目とするものは、“哲学”であり、哲学においては、内容は本質的に“形式”と直結しているからである。・・・さらにまた、著作家、とくに哲学上の著作家の任務は、真理を発見し、a
真理を語り、真理および正しい概念を広めることにあるとすることができる。・・・・さまざまな“真理”のこのような喧噪のうち、古いものでもなく、新しいものでもなく、つねに存在するものは何であるか。これら形式もないままに動揺しているだけのさまざまの考察から、このつねに存在するものが b
どのようにして取り出されるべきであろうか。―――“哲学”によるのでなくて、他にどのようにしてこれが区別され確証されるのであろうか。もとより法、倫理、国家に関して極めて古くからその真理が広く示され知られていることは、それが公共の法律や公共の道徳および宗教という形で c
広く示され知らされているのと同様である。けれども思考的精神が真理をこのような手近な仕方で所持することを以ては満足しない以上、“真理のさらに要求するところのものは、”真理がなお把捉されること、そしてすでにそれ自身において理性的な内容に“理性的な形式”をも得させ、d
以てこの内容が自由な思索の要求に適合したものとして現れること以外にありえない。・・・そして、このような自由な思考とは、・・・e
いずれにせよ与えられたものに止まっておらず、自らより発し、またまさにそうすることによって、最内奥において真理と一致した自覚に達することを要求するものなのである。【法の哲学 序(s3)】
wissenschaftlich をどのように訳すべきか。このテーマで考えてみたい。手元にある三修社の現代独和辞典では、wissenschaft は①学問、科学、②知識、学識 などの訳語が挙げられ, wissenshaftlich では学問の、科学の、学術の、などと訳されている。
wissen は①知識、学識、心得などの訳語が当てられている。-schaft と schaffenが語源的にどう関係しているのか、浅学にして不明だが、schaffen 意は①造り出す、創作する、②仕事する、成し遂げる、などの意味があるらしい。>b
とすれば、wissenschaft は「知識が創り出したもの」と解してよいのかもしれない。だから、単に wissenschaft を学問、知識、科学などと訳すだけでは、もとの原語の語源的な意味は捉えられない。-lich は形容語尾で使われる。単にwissentlich は
知っていながら、意識しながら、さらに、故意に、などの訳語が当てれているのに対し、wissenschaftlich は、学問の、科学の、学術のなどと訳され、とくに歴史的には、マルクスが der wissenschaftliche Sozialismus として、
従来の Sozialismus 社会主義 に wissenschaftlich を形容詞に付し、この語によって、彼自身の思想の独自性を主張したのである。しかし言うまでもなく,この wissenschaftlich こそ、ヘーゲルが自身の哲学の特色として打ち出したものであった。
従来のPhilosophie、哲学を、単に「愛智」というレベルではなく、wissenschaftlich の段階にまで高めたことがヘーゲルの功績であることは周知のことである。この wissenschaftlichは、しかし、単に学問とか学術とか科学と訳出するだけでは、
その真意は出てこない。ヘーゲルの wissenschaftlich の性格は、論理必然性を概念的に証明するものであること、体系的必然性を持つものであることである。とすれば、現代の日本語でいう「科学」には、必ずしもヘーゲル由来の意味は含意されてはいない。
とすれば、 wissenschaftlich の訳語として、哲学的 という用語を、科学的、学問的、学的、などと並んで、加えるべきではなかろうか。もちろん、多くの人々は、伝統的にも 「哲学的」 という用語で、ヘーゲルのwissenschaftlich が持つ、
概念的論理必然性や体系的完結性という理解はこれまでなかったかもしれない。しかし、たといそうであるとしても、これからの日本の哲学史の伝統の形成において、日本語の「哲学的」という用語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の用語法の原意を含めて使用してゆくべきだと思う。
これまでのヘーゲルの作品の著作において、これまで実際にどのように訳されてきたかというと、「学的」「科学的」「学問的」などと訳されてきた。これらに加えてさらに、wissenshaftlich に「哲学的」という訳語を加えるとすれば、
従来の philosophische の訳語として確立している「哲学的」との区別をどうしてゆくかという問題が出てくるかもしれない。一つの提案としては、 philosophische の訳語としては、愛智学的、智学的などの訳語を当てればどうだろうか。
それとも、「科学的」という語に ヘーゲルの wissenschaftlich の原意を込めて使用してゆくという道もあるかもしれない。ただ、個人的な感想としては、日本の哲学史の試みとしても、wissenschaftlich の訳語として、「哲学的」の語を使いたいと思う。
したがって、philosophie、philosophisch の訳語として、愛智学、智学、愛智学的、智学的などの用語を使うようにしたいと思う。そうして、Wissenschaft、wissenschaftlich の訳語としては、「哲学」、「哲学的」の語を当てたい。