哲学において概念が自己を自己自身から発展せしめる方法、また概念が単に自己の諸規定の内在的進展と産出にとにすぎないという方法――この進み行きは、種々の事情が“与えられている”という漫然たる主観的確信によっても、またさらに、このような他所から受け入れた素材に普遍的なものを a
“適用すること”によっても生じることなく、ここでもやはり論理学が前提されるのである。 >普遍的なものの特殊化を、単に解消するのみではなく、また産出するものとしての、概念の機動的原理を、私は弁証法と称する。――したがって弁証法とは、感情に、また、 b
一般に直接的に意識に与えられた対象や命題などを解消したり、もつれさせたり、あちこちを引き回して単にそれとは反対のことを引き出して来ることをするような意味のものではない。――このようなやり方は、弁証法の消極的な用い方で、たとえばプラトンにおいてもしばしば見るところのものである。c
・・・・概念のさらに高次の弁証法は、規定を単に制限や反対物として産出し理解するのではなく、この規定から積極的内容と成果とを産出し、把握しなければならない。このようにすることによってのみ弁証法は、発展であり内在的進展なのである。 d
この弁証法はその時、主観的思考の外的な所為ではなく、有機的に枝と果実とを産み出す内容独自の魂をなすのである。理念のこの発展は理念が持つ理性独自の活動であって、思考は主観的なものとしては自分の側からこれに何ものをも加えることなく、ただこれを注視するのみである。 e
あるものを理性的に考察するとは、対象に外から一つの理性というものを付け加えてこれを加工するの謂ではなく、対象がそれ自身で理性的であることをいうのである。ここにおいて、自己に現実性を与え自己を実存界として産出するのはその自由における精神、すなわち自覚された理性の最先端である。f
哲学の任務とするところはひとえに、事象が含む理性のこの独自の仕事を自覚にもたらすにある。【法の哲学§31】哲学の任務、概念の展開の自覚化と概念の機動的原理としての弁証法
かくてたとい概念がその具体化された形では相互に離ればなれのように見えても、そのような形はまさに仮象ににすぎず、これをその進展において見ればその仮象たる所以は明らかである。けだしすべての個別性は普遍者の概念中にふたたび帰るからである。経験的諸科学においては人々は通常、 a
表象中に見いだされるものを分析する。そして個別的なものが共通したものへと還元されると、そのときにこの共通したものを概念と称する。(これがマルクスのなどの概念観)我々の行うのはこのような方法ではない。がんらい我々の欲するところは単に、概念自身がいかに自己を規定するかを注視することb
にすぎず、我々の憶見や思考の何ものもそれに加えないように自制するのだからである。・・・・我々はまさに真なるものを成果の形において見ようとするが、そのためには本質上、まず抽象的概念自体を把握すること必要だからであると。現実に存在するもの、すなわち概念の実在形態はしたがって、c
それがいかに現実そのものにおいては第一のものであろうとも、我々にとってはまず次に来るべきものであり、後に取り上げるべきものである。我々の行き方は、抽象的な形態を独立自存的なものとして自証せしめるものではなく、真ならざるものとして自証せしめることにある。(ibid s 32 )
ヘーゲルの哲学の証明の方法。概念の自律的、弁証的展開。――――科学的な叙述としては、抽象から具体へ。しかし、思考としては、具体から抽象へとさかのぼる。
哲学的法学は法の理念、すなわち法の概念とそれの実現行程とを対象とする。哲学は理念に関わるべきであり、だから、人がふつうに単なる概念とよんでいるものと関わるものではない。むしろ哲学は単なる概念の一面性と非真理を指摘し、a
また、概念のみが現実性をもち、それも己にこの現実性を与えるものである。(ここでいう概念は、しかし、しばしば人が呼び聞きしているところの、ただの抽象的な悟性的な規定であるところのものではない)b
この概念そのものによって己を確立した現実性でないすべてのものは、過ぎ失せる物であり、外的な偶然性であり、思いこみであり、本質を失った現象であり、非真理であり、思い違い、等々である。【法の哲学§1】※したがって、真に従事し甲斐のある、永続的で永久的な仕事は哲学のみということになる。
哲学的認識においては概念の必然性が主要問題であり、生成された成果としての行程が概念の証明であり演繹である。・・・最初のいかにも形式的な方法はそれでもなお定義において概念の形式を要求し、証明において認識の必然性の形式を要求するが、直接的意識や感情のやり方は、 a
法は、(a)ある国家に適用される形式によって一般に実定的となる。そしてこの制定法としての権威が、法律知識にとっての、すなわち実証的法学にとっての原理である。(b)内容上から見れば、この実定法は次の三者よって実定的要素を得るのである。(ibid §3 )
法の地盤は一般は精神的なものである。そしてその立場および出発点はさらに精密には意志であり、これは自由なものである。a
したがって自由ということが法の実体と規定とをなすものであり、法の体系とは現実化された自由の王国、すなわち精神が自分自身から産み出した世界、いわばその意味で第二の自然である。(ibid §4 )
法の地盤は一般に精神的なものである。そしてその立場および出発点はさらに精密には意志であり、これは自由なものである。a
〔自由、実践的および理論的態度〕意思の自由は物理的自然と比較してみると最もよく説明される。すなわち、自由が意思の根本的規定であることは、重さが物体の根本的規定であることと同様である。我々が、物質は重い、というとき、この述語は、単に偶然的なものと思われるかもしれない。a