海と空

天は高く、海は深し

4月2日(火)のTW:#肉体、#精神、#芸術、#哲学、#詩

2013年04月03日 | Myenzklo

人間の肉体は、その全ての形状から見て、精神の栖であり、しかも精神の唯一の可能な自然的存在相であるという点にある。それ故、精神も肉体においてのみ他者に対して直接にあたえられている。・・単に自然的な面と精神的な面との相違を消去して、肉体の外形を美しい型態と化せしめ、b


徹底的に完成された、有心化された、精神的生命に充ちた型態に転化させることこそ、芸術の課題なのである。1100 哲学が自由な思考の形式における絶対者の意識であるのに対して、芸術は感性的直観の形式における絶対者の意識である。1224注


円熟の域に達した芸術はその表現のために必然的に人間の外面的現象という形式を採らなければならなかったのであって、それというのも、精神はこの形式においてのみそれに房わしい存在相で自然の感覚的素材の内に実現され得るからである。以上、人間の肉体とその表現についてのべたと同様の関係が a


人間の感情や衝動や所為や出来事や行動についても認められる。これらの人間的な現象の外面も古典的芸術においては、単に自然の生命相に属するものとしてではなく、精神的なものとして特徴づけられ、内容の面が外面と十分に相通じるものとして一体化されるのである。1101


ギリシャ神話の多種多様な諸観念の歴史的な研究は吾々の当面の課題ではないということである。ここでは吾々はただ上述の改造の本質的契機を、それが実際に芸術的形成とその内容との一般的諸契機となっている限りにおいて、問題とするのである。これに対して、限りなく夥しい特殊の神話や物語や史伝、a


一定地域や象徴的表現に関する諸事項は、それらも皆新しい神々の世界でもなおその存在権を保持し、芸術的諸形象の上に付随的に現れては来るけれども、吾々が我々の方針に従って到達しようとする本来の中心点に属するものではない。(ibid s 1133 )


本来の中心点とは、美の理想が純粋に完成された形で実現される場合をさす。芸術形式の「」形成過程を辿るにあたっても、これが究極的な目標となる。1242注


彫刻は神々をその真の型態において感覚的直観に呈示する点で、古典的芸術の本来固有の中心をなすものである。もっとも、詩は、彫刻が神々をその安らかに自足した客観性において表現するのとは違って、神々と人間について感ずるところを語り、あるいは神々の世界と人間の世界を  a


その活動と運動の相において描き出す点で、芸術的表現を一層完全にすることになる。※ここでもヘーゲルは芸術様式として、彫刻よりも詩を高い段階に位置づけている。――吾々もここでは、まだ形式を備えていない、蕪雑な自然力の場合から考察を始め、それが幾つもの段階をへて個体的な精神性に達し、b


確固たる型態に凝結するに至る経過を示さなければならぬ。第一に吾々の注意を要求するものは神託で、これは神々の智恵と意志をばなお無形態のままに自然の存在物を通じて告示するものである。第二の主要点はは普遍的な自然力に関係するものであり同時に又真の精神的な個体としての神々の根底に c


その母胎として存し、神々の生成と活動の必須の前提条件となっている正義その他の抽象的観念に関わるものである。最後に第三点としてあげるべき、理想への本来全く必然的な進展は、自然の活動やごく抽象的な精神的諸関係の、はじめは皮相的であった擬人が、それ自体においては従属的な、 d


消極的なものとして克服され抑圧され、この貶めを通じ独立の精神的個体性とその人間的な型態や行為が揺るぎなき支配権を得るようになる。この変化が古典的な神々の成立史における本来の中心点をなすもので、それはギリシャ神話では新旧両神族の闘争という形で素朴に、明白に表現されている。1134



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