海と空

天は高く、海は深し

8月31日(土)のTW:「世界史と自由」

2013年09月01日 | Myenzklo

けれども、この上に述べたような自由という言葉はそのままでは不明確で、極めて多義的な言葉であるということ、自由は至上のものであるのに、実にいろいろな誤解や混乱や誤謬を伴い、またあらゆる逸脱の可能性を含んでいると言うこと、――この事が今日ほどよく知られ経験された時代はなかった。s45


※この個所の記述からも分かるように、自由がヘーゲル哲学の核心的概念であることは明らかである。ただ問題は、この自由をヘーゲルの概念として、正確に把握し得ているかが問題である。ヘーゲル哲学の読解の目的は、この自由の概念の的確な把握にあるといってもいい。歴史の目的としての国家も、


もちろん、自由を目的としている。ヘーゲルに言わせれば、全歴史が自由を目的とし、宗教的に言えば、神の究極の意志という事になる。>><<
自由はそれ自身、まさに自分を意識し、――というのも、自由はその概念上自分についての意識であるから、――それによって自分を実現するという無限の


必然性を含んでいるものである。すなわち、自由は自由が実現する当の目的であって、また、精神の唯一の目的である。事実またこの究極の目的は、世界史の営みの目標となったのであり、地上の広大な祭壇の上で、また長い時間の経過の中で、この目的の前に、あらゆる犠牲が捧げられたものである。s45


自由が世界に実現するための手段の問題は、我々の歴史の現象そのものの中に導く。自由そのものはさしあたって内的概念であるが、これに対して手段は外的なものであり、現実的なものであって、歴史の中で直接我々の眼前に立ち現れるものである。歴史を一瞥して直ちに感じられることは、a


人間の行動が欲望、情熱、興味のみがその推進力として現われ、主役として活躍するものだということである。なるほど、そこでは一般的目的、善の意志、崇高な愛国心というようなものもあるにはある。けれども、これらの徳や一般的目的は世界と世界が創り出すものに比べると言うに足りないものである。b


確かに、我々はこれらの個人自身の中に、またその活動の分野の中に理性の使命が実現されているのを見ることもできる。しかし、それらは人類の大多数に比べると言うに足りない。またそれらの徳の占める範囲も比較的に小さな部分に限られる。これに反して、諸々の情熱、特殊な関心の目的、c


利己心の満足は強力なものである。それらは、法や道徳が加えようとするどんな制限も眼中に置かないこと、またこれらの自然力の方が人為的な、退屈な秩序や節制、法や道徳の訓育よりもずっと人間に身近いものである点で力を持っている。我々がこの情熱の演劇を見物し、その情熱の暴行の成り行きを d


単に情熱に結び付くだけではなく、善良な意図、合法的な目的をさえ伴っているような無分別の成り行きを眼の当たりに眺め、そのような情熱から災害や罪悪が生まれ、人間精神の創り出したもっとも華やかな帝国の没落がそこから来るのを見るとき、我々はこの有為転変にただ哀愁の情を感ぜざるをえない。e


そこで我々の民族と国家型態、ならびに個人の徳行のもっとも立派なものが被った不運をそのまま集め集合して、これらの情熱の結果を世にも怖ろしい画面に描きあげるのであるが、それによって我々の感情は何とも深刻な、やるせない悲嘆のどん底に沈めさせられる。実際このような悲嘆に対しては f


どんな結果も我々を宥めてくれる力を持たない。・・・けれども、我々が歴史を諸々の民族の幸福、国家の智慧、個人の徳が挙げて犠牲に供せられる屠殺台であると見るときにも、この膨大な犠牲は一体何者のため、如何なる究極的な目的のために捧げられたのであるかという疑問が必然的に頭に上ってくる。g


ここで我々はこの観点からして、あの世にも怖ろしい画面を展開して我々に憂鬱な感情を起こさせ、それについての瞑想的な反省を起こさせた諸々の出来事をひとえに手段の世界と見たのである。我々はここに歴史の絶対的な究極的目的、世界史の真の成果に対する手段を見ようとするのである。h


※こうしたヘーゲルの歴史観をどう考えるか。彼は世界の目的に「自由」を見いだし、実際の世界史の展開を、諸々の国家、民族の荒涼悲惨たる歴史を、理念実現のための「手段」として見る。しかし、こうした歴史の見方をどう考えるか、単純に承認できるものではないだろう。とすれば、それに代えて、i


どのような歴史観があるのかを明らかにする必要があるだろう。まあ、もう少しヘーゲルの主張するところの歴史観を検討してゆくことに主眼を置こう。批判はそれからである。j【理念実現ための手段】


※現在の個人的な見解としては、共産主義の「階級闘争史観」には当然同意できるはずもない。それは私が共産主義者ではないからであり、また同時に、共産主義の必然的な帰結として生じる反日主義が、また歴史の一面しか見ていない虚偽の歴史観であるからである。課題は全面的で客観的な歴史観である。


我々が原理、究極目的、使命、または精神の本性、精神の概念と呼んだものが、単に一般的なもの、抽象的なものに過ぎないということである。原理、原則、法則は内的なものであって、たといそれ自身において如何に真なものであっても、それ自身としては本当に現実的なものではない。(s48)


※ここにもヘーゲル哲学の特色が現われている。単なる抽象は真実ではない。それが現実化され具体的に展開されてこそはじめて真実なものであるという認識である。単なる可能性、sollen は無力であり、真実なものではない。この認識はヘーゲルにおいては一貫している。


目的、原則などは我々の思想の中にあるものであって、まだ現実の中にあるのではない。即自的なものは一個の可能性、単なる能力にすぎず、内面から出てまだ現実存在になっていない。それらが現実のものとなるためには、第二の契機が加わらなければならない。それは、実行と実現であり、その原理は a


意志であり人間の活動である。概念、まだ潜在的な使命が実現され、現実化されるのはじつにこの人間の活動に由るのである。それら概念を活動させ、それに存在を与える働きをするのは、人間の欲望、衝動、性向であり情熱である。私が在る物を働かせを、それを存在させることは、私の大切な役目である。b


私はその努力をしなければならない。私はそれを成し遂げることによって満足を得ようとする。主観がその活動と仕事によって自分自身に満足を与えることこそ、主観の無限の権利である。人間は何かに関与すべき場合には、それに没頭し、そこに自分自身の自己感情の満足を見出さなければならない。c


或る事のために働くものは、単に抽象的に関わるのではなく、個別具体的な物に関わるのである。或る事に関わって活動している個人が同時に自分をも満足させるのでなければ、何事も起らず、何事も遂行されない。それらの個人は具体的で個別的特殊な人間である。彼等は彼等特有の、特殊な欲望、衝動、d


関心をもつものである。これらの欲望の中には利己的な欲望や意志の欲望のみではなく、また自身の洞察、確信、或いは見識、意見に基づく欲望もあるのであって、そこにすでに分別、悟性、理性の欲望の兆しが見られるのである。人間が或る事のために活動する必要のある場合には、そのことが気に入り、e


善い物だ、正しい物だ、利益があり、有用な物だという意見を持ってそのことに当たることを要求する。それは人間が信頼や権威とかによってほとんど動かされる事がなくなり、自身の悟性、自立的な確信と見解によって自己の活動の役目を果たし、事柄に寄与するようになった現代の本質的な特徴である。50


世の中のどんな偉業も情熱無しには成就されなかった。ここに二つの契機が我々の対象になってくる。その一つは理念で、他は人間の情熱である。一方は我々の眼前に拡がっている世界史という大きな敷物の縦糸であり、情熱はその横糸である。そしてこの両者の具体的な中間であり結合であるものは、a


国家の中の人倫的自由(die sittliche Freiheit im Staate)である。(ibid p 50 s 38)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 8月30日(金)のTW:「キリスト... | トップ | 9月7日(土)のTW:#個人、#市民... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Myenzklo」カテゴリの最新記事