市民の私的関心が国家の一般的な目的と一致し、一方が他方の中に自分の満足と実現とを見いだす場合に、国家は自己の目的の歴史的実現から見て繁栄し、国家自身としても強力になる。―――このことは極めて重要な命題である。けれども国家が合目的的なものを意識するに至るまでには、a
合目的的な施設と長期にわたる悟性の闘争とを伴う多くの準備と画策とが必要であり、その一致が実現されるまでには個別的な利益と情熱(Leidenschaft)とに対する多くの闘争、困難な長い間の教育が必要である。そのような一致は国家の全盛期であり、その徳その力幸福を謳歌する時代である。
世界史は人間の個々の集団の場合のように、ある意識的な目的に基づいて起こり始めるのではない。人間の単純な共存の衝動でさえ、人間の生存と所有との保全という意識的な目的を持っている。そして、この共存が実現されるとともに、その目的はさらに拡張される。a
・・・・この目的は内的な衝動であり、もっとも無意識的な衝動であって、世界史の全事業はこの衝動を意識にまで高めようとする努力に他ならない。【歴史哲学上 s52】
そこには我々が主観的な面と呼んだもの、すなわち欲望、衝動、情熱、個別的関心、ならびに意見と主観的観念が自然存在の型態、自然意志の型態をとって現われるが、それらは自立的なもの、個別的なものとしてある。これらの無数の意欲、関心、活動性は世界精神がその目的を達成し、a
この目的を意識に上せて実現するための道具であり手段である。この目的はただ自分を発見し、自分を自覚し、自分を現実性として直観する事に他ならない。(ibid s 52 )
個人と民族との生命は各自自身の目的を追求し、その満足を求めながら、同時により高いもの、より以上のものの手段と道具になっているが、彼等はこのより高いものについては何も知らず、無意識にそれを実現している。(ibid s 52 )
我々の信念は、理性が世界を支配するのであり、したがってまた世界史をも支配してきたという主張に立っている。他の一切のものはこの絶対的な普遍と実体に従属するものであり、それに奉仕するものであり、その手段である。またこの理性は歴史的な存在の中で、またその存在を通じて自分を完成する。a
これらの欲望や関心がこの目的に関して無意識であるとしても、普遍は特殊的な目的の中に内在するのであり、これらを通して自分を完成させているのである。今若し精神の内的な、即自向自的にある行程を必然的なものと見、これに対して人間の意識的な意思の中に、
人間の諸々の関心として現われるものを自由の領域にあるものとすれば、上の問題は自由と必然との合一という形式を採ることにもなる。この二規定の形而上的な連関、言い換えると概念の中における連関は論理学に属するものだからここでは詳論できない。(ibid s 53 )
【理念】理念が無限の対立に進展する過程は哲学の中で示される。対立とは、自由な普遍的型態の理念、すなわちあくまでも自分の許に存在するという型態の理念と、形式的な向自有、自立的な個々の存在であるところの全く抽象的な自分への反省としての理念、すなわち精神に属してはいるが、 a
形式的自由に過ぎず、自我であるところの、全く抽象的な自分への反省としての理念との間の対立である。それゆえに普遍的な理念は一面では実体的な充実としてあるが、他面では自由な恣意という抽象としてある。この自分への反省(自由な恣意)は個別的な自意識であり、
一般に理念に対立する理念の他者であって、そのために全くの有限性の形を取る。まさにそれ故にこの他者は普遍的絶対者に対しては有限性、規定性である。それは絶対者の定有の面であり、その形式的実在性であり、また神の栄光のための土壌である。この有限性から一般にあらゆる個別的なものが出て来る。
※ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、言うまでもなく、普遍的絶対的な存在としての神と個別的具体的な存在としての人間との関係である。個別的な個人は神の栄光のための土壌である。この個人は神の理念に反する、特殊的な存在でもある他者でもある。だからそれは現象のレベルにある。
自分の現前に現われる存在を自分の特殊的な性格、意欲、恣意にうまく適合するように持ってゆき、その現前の存在の中で自分自身を享楽するものは幸福である。けれども世界史は必ずしも幸福の地盤ではない。活動性は普遍的なもの、内的なものを客観性の中に移し入れるところの媒介者である。s54
普遍的理念の直接的な現実性への実現と、個別性の普遍性への高揚は、最初は両面相互の差別と無関心という前提のもとで行われる。行為者の活動は有限目的、特殊的な関心に由って動く。しかし、行為者は知識を持つ者であり、思考する者である。従って彼等の目的の内容は、法、善、義務などの a
普遍的な本質的な使命と結び付いている。というのは、単なる貪欲、粗野な意欲、生の意欲は世界史の舞台の外に、世界史の圏外にあるものだからである。この目的であると同時に行為の指針であるところの普遍的な原理は一定の具体的な内容を持っているものである。個々個人はその身分を持っていて、b
一般に正当で、身分相応の行儀作法というものは心得ている。日常の私生活の場合には、国家の法律と風習に由って決定されている。(ibid s 56 )※ここでの議論を具体的に述べれば、現在の国家の普遍的な理念として掲げられる代表的なものは、自由や民主主義、平等、と言ったものが c
すぐに思い浮かぶ。それは、具体的には「憲法」に由って、具体的に規定されているものである。例えば、現行日本国憲法の基本的な理念としては、自由主義、民主主義、国民主権、平和主義、などとして明らかにされている。もちろん、改正憲法もこうした基本的な理念を受け継ぎ、深化させるものである。
問題は、現行日本国憲法がその欠陥故に、その国家概念の歪みとしてどのように現象しているかを、証明し論証してゆく仕事が残されているという事である。とくに、国家の真の在り方としては、「核武装、自主防衛」の憲法的な立場が必然的に帰結する。現行日本国憲法は、属国主義の帰結として存在する。
【理性の狡知】情熱の特殊的関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定の結果として生じるものだからである。特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落してゆくものに他ならない。対立と闘争に巻き込まれ、a
危険にさらされるのは普遍的な理念(イデー)ではない。普遍的理念は侵されることなく、奪われることなく、闘争の背後にきちんと控えている。そしてこの理性が情熱(Leidenschaft)を勝手に働かせながら、その際に損害を被り、痛手を受けるのはこの情熱に由って創り出されるそのものだと、
言うことを、我々は理性の狡知(List der Vernunft)と呼ぶ。とういのも、それは一面では空しいものでありながら、他面では肯定的であるという現象に他ならないからである。特殊的なものはたいてい普遍的なものと比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供せられ、
捨てられる。つまり、理念はこの生存と無常との貢ぎ物を自分では納めることはしないで、個人の情熱に納めさせるのである。【個人の価値】我々は個人の目的とその満足が、こんなにも犠牲に供せられ、その個人の幸福が一般に偶然性の王国――幸福はこの王国に属するものである――の支配に
委ねられているのを見て、諸々の個人を一般に手段のカテゴリーの下に考察して満足するとしても、個人の中には最高の存在に対する場合と同様に、このような手段の観点だけから見ることを躊躇させる一面がある。何故なら、それは絶対に従属の位置に立たないものであり、個人の中における