アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

Bario Food Festival 2014

2014-08-04 | ボルネオの旅

今回で何度目だっけ、と数えてみる。

初めて村を訪れたのは2008年3月。出たり入ったりを繰り返しながら、2ヶ月くらいその周辺にいた。

その次は2009年1月。到着するなり風邪を引いて寝込んだ。

フードフェスに初めて参加したのは、確か2010年3月。携帯の電波と共に、伐採ロードが開通していた。

そして次が2012年7月。コンクリートの道ができて、ラジオ放送も始まっていた。

 

だから今回は5回目のBario、3回目のフェスってことになるんだな。

年数にすれば、Bario歴6年。

村は着実に発展して、村で見かける車の台数も3~4倍に増えた。

フェスも手づくり感いっぱいだった4年前に比べ、今年は随分オーガナイズ化が進んだ印象。

 


(2012年に村の中心にできたステージと、白いコンクリートの道。テント設置もこの年から)


(バンブーオーケストラは毎年オープニングで大活躍)

 
(恒例になった女装ファッションショー。この後モデルによるフットサル大会が行われる) 

 
(伝統ゲーム大会も今や恒例。竹ポール登りはかなり難易度が高い) 


(イギリスからは毎年ボランティアの学生たちが数十人規模で訪れる。木登りは苦手)


(観客席には、村のカッコイイおばあちゃんが必ず1人はいる)

 

Barioは、ボルネオ島の真ん中に位置するクラビット高原の、そのまた真ん中にある人口数百人の村。

村人の大半を占めるクラビット民族は、都市部や周辺の村々に住む人を全部合わせても3000~5000人しかいないらしい。今は混血化が進んでいることもあって、人口を把握することすら難しい。

 

Food Festivalは今年9年目を迎えたばかりの新しい祭りで、もともとはイギリス人活動家・Jason Gathrone Hardy氏の提案が発端だった。

人々は当時、村が過疎化している現状をなんとかするために観光業で若者の仕事をつくりたいと考えていて、その数年前からホームステイ用のロッジが幾つか整備されていた。加えて、民族独自の言葉や文化がきちんと継承されずに消えていく危機感を、一部の人達は薄々と感じ始めていた。

 

今年のフェス責任者であるL. Bulanさんによると、フェスの目的は次の3つに集約される。

・伝統文化と食文化の継承

・創造力の促進

・村の再活性化

 

そして私などのヨソモノは、更にこれに加えて4つ目の効果をフェスに期待してしまう。

それは周辺の森の保全であり、不当に彼らの土地が搾取されることが未来永劫ありませんように…ということ。

 

たとえば4年前、最寄りの街から村までの伐採ロード開通には、村の中に賛成意見も反対意見もあった。それを踏まえて森林の利用方法を考えるのは彼ら自身だが、村の発展のために良かれと思って許可した伐採が、何年か後に悲惨な環境汚染だけを残した例は他の地域にいくらでもある。

だからそうした詐欺まがいの勧誘に騙されることがありませんように、と私は念じるように願うしかない。(それは私なんかより村の人達の方がずっとよく知っている現実なのだけれど。)

 

森は、人がいてこそ守られるのだ、とボルネオに来て強く感じるようになった。

 

それは日本の里山のように手入れすることによってではなく、存在することによって。

 

ここでは、人の存在感を示すことがとても大事なんだ。

 


(村の伝統的なバンブーダンス)


(伝統的な脱穀方法のデモンストレーション。6年前には収穫期に実際に行っているのを見かけた)


(ご飯はつぶしてバナナの葉で包む。村のお年寄りの中には耳たぶが長い人も)

 
(この地域で穫れるバリオ パイナップル。高原気候で育つため、驚くほど甘くてジューシー) 


(これまた驚くほど美味しいパッションフルーツ。いずれも野生ではない)


(クラビット族の伝統の舞い。ホーンビルと呼ばれる鳥の動きを模倣している)

 

今回、もし村が劇的に変わってしまっていたらどうしよう、と思って来たのだけれど、そこにはやはり変わらない風景が在り、変わらない人々がいた。そればかりか、私がこの村に惚れ込んで以来、最も「帰ってきた感」を得ることができたのは、正直、少し意外だった。

顔見知りの人に忘れられていたらどうしよう、とか、日本人客を連れてこれなかったのは役立たずだろうか、とか、することがなくて一人で暇になったらどうしよう、とか、今更ちっぽけな考えがブンブン飛び回る小蠅みたいに鬱陶しくつきまとっていた。

 

ちなみに私は意外にも遠慮しいな性格で、相手が本当に心を許してくれたと実感できるまでは何かにつけ気を遣ってしまう。英語も未だお粗末だから、ベラベラ喋られると60%くらいしか聞き取れないこともある。その度に唇を噛み締めて、自分にできることを探す。

小学生の女子がすぐ仲良しグループに帰属したがる気持ちが、こういう時は痛い程よくわかる。
コンフォートゾーンと呼ばれる安心空間を見つけて、しがみつきたくなる気持ち。

 

だからこれまでの6年間は、ここが第二の故郷だと嬉しそうに言いながら、実は故郷の一員になれるようにひたすら祈るしかない、という肩身の狭いただの居候だったと思う。

 

それが今回は、ほんの少しだけ、そのポジションからの解放あるいは昇格の可能性が見えた気がした。

何より私はようやく肩の力を抜いて、フードフェスに関わり始めることができたのだ。

 

それは何かというと。…ではなく、それはなぜかというと。

 


(なんとフェス中にホーンビルがやってきた。ペットのような野生のような…)


(和名はサイチョウ。神様の使いとされ、Barioが属するサラワク州の州鳥にも指定されている)

 

ホームステイ先の長男、ラワイが里帰りしたのはフェス2日目。

その前々日に私は到着し、同日、彼の友人2人がクアラルンプールから初Bario入りした。

同じロッジで挨拶をし、片方の彼は写真家のマディ、一方は彼女のエラインという名だと知った。

 

Bario Food Festivalは地域活性化が目的のひとつなので、できるだけPRし、できるだけ多くの人に来てもらいたい。同時に都会や他国に住んでいるクラビット族の仲間たちにも、この機に是非帰郷してもらいたいと人々は願っている。

ラワイはそのために、今年からFacebookで発信ボランティアを始めたらしかった。

私はホームステイ先のママにFacebookページの存在だけを知らされたため、そのセンスの良さに「一体どんな人が発信を担当してるんだろう」と実に不思議に思っていた。ら、なんと身近な存在のラワイだったというわけ。

 

ちなみに彼はその役目を「キュレイター」と呼んでいた。

キュレイターとは、美術館などの企画・展示を担う人の呼び名。

Facebook編集にその名を付けるセンスが、これまたカッコイイではないですか。

 

さすが、彼は広告関係の仕事人だそうだ。

 


(Facebookページ:https://www.facebook.com/pages/bariofoodfestival/271633572251?fref=ts)

 

それで、クアラルンプールから来た友人2人は、来年のフェス10周年に向けたPR写真を撮り溜めるため、ラワイからボランティア撮影隊を頼まれて来たのだという。

 

そして彼が到着したフェス2日目、Facebookの他にも写真を活用できないだろうか、と即席会議が設けられた。

出てきたアイデアは、ミニ写真展、生活と文化証言も合わせた写真集、シネマフェス、こども対象の動画ワークショップなど…。
そして早速、今回の最終日(翌日)夜のステージで写真コンテストを開いてみることになった。

 

結果的に写真コンテストは写真スライドショーに変わり、ラワイ、マディ、私が撮った写真を皆の前で上映したのだけれど、それにしたって今までにないミニ上映会は会場の雰囲気をガラリと変えた。
(私はマディの写真に見とれていて、会場写真を押さえるのを忘れてしまいました…)

 


(このステージ左側にスクリーンが設置され、即興スライドショーが上映された)

 

そして全てが終わった夜。

私たち一同は、囲炉裏を囲んで反省会をした。

 

まずママが口火を切る。

「みんな褒めてはくれるけど、それだけでは来年の改善につながらないわ。どう改善したらいいかを教えてほしいんだけど…」

ジェイソンが提案する。

「ナショジオの写真家が来ていたけど、知ってる? 来年はマスコミの受け付けデスクが必要かもしれないね。主催者として把握しておく必要がある」

ママが「今年も考えたんだけど人手がなくて」と言うと、エラインがすかさず発言した。

「広場の一番端のテントのところに机を置いて、一人配置するだけでいいんじゃない?」

次いで他の人たちも続々参戦。

「今のテレセンターの前では確かに分かりにくいかもね」

「そもそもマスコミって、受け付けがなくても主催者に申し出るもんじゃないか?」

「いや、写真だけだったら分からない」

「普通マスコミの人はプレスカードというのを持っていると思うけど」

「いや、フリーランスだったら分からないよ」

…そんなやりとりが球投げのようにポンポンと続いた。

 

「私は…」と、少し物怖じしていた私も勇気を出して輪に入った。

「外国人用に英語のタイムスケジュールを用意するのは難しい?」

 

3日間のフェスティバルでは、大まかなプログラム内容は(クラビット語かマレー語で)示されるのだが、タイムスケジュールがないため、何時に何が行われるのか現地の人でも詳細に把握している人はほとんどいなかった。

ゆったりのんびり過ごそうと思えばそれでもいいのだけれど、初めて来る観光客はさぞかし戸惑うだろうと想像された。それに私たちだって、村内を散歩しに行きたくても何時に戻ってくればよいかが分からず、結局ぶらぶらと暇を弄んでいる内に疲れてしまう、という事態になっていた。

 

ママは言った。

「そう、分かってるんだけどね。今回だってステージのプログラムが決まるのが前日だったり当日だったりしたのよ。なかなか事前には決まらなくて」

「じゃあ、タイムが決まった時点でボードに書き出したらどう?」

「確かにそうね」

他のみんなも「ンダンダ」と言わんばかりに頷いていた。

 

その後も、考え出すと改善点はいろいろあることに気がついた。

 

今回新たに友人になったクラビット族の女性は、食事が肉食ばかりでバラエティが少ないことに不満を持っていた。普段は都会に住む彼女らしい意見だけれど、確かに「食の祭典」という割には質素すぎる食事で、メニューも少ないナァと気づかされた。

「だったら、バリオバーガーなんて、いいんじゃないですか?」

「バリオカレーとか!」

「今は試食しかできないジャングルフードも、定食にして出したら売れるかも…」

そんなアイデアを彼女と一緒に出し合った。

 


(試食用のジャングルフード。ショウガのような植物の茎の芯だけ取り出して炒めたもの)


(1日目と3日目の夕飯はスポンサーから提供される。この流れ作業も毎年進化中)

 
(フェスの途中で一端家に帰る村人たち)


(今年はプロのフォトグラファーが何人もいた。プロの映像ディレクターも終始ビデオを記録)

 

つまり“ただの居候”からの卒業は、自分にも何か役割を与えてもらえる(かもしれない)ことによって実現する。

 

そしてそれは受動的に待つのではなく、積極的に提案し、手を挙げればいいんだということ。

そんな簡単なことに、6年も経ってようやく気がついた次第。もしくは恐る恐る挙げた手が、ようやく空振り三振せず誰かの目に留めてもらえるようになったのかもしれない。

 

来年のフェス10周年は、村から離れて暮らしている遠隔チームも、きっとFacebook上で議論しながら準備を進めていくことになる。

物怖じしている場合じゃないゾ、と私は自分に言い聞かせる。

 

幸せの船に乗るチャンスは、逃しちゃいけない。

 

今から楽しみだ~。

 


(今年は村の女性たちのパフォーマンスが劇的に進化していた。みんなで創造している感♪)

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