aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 香川県編  屋 島 3の1

2024-10-11 21:32:22 | 履歴稿
IMGR065-04
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 屋 島 3の1
 
 北海道に移住することを決意した父が、これが最後になるやも知れん思出にと、留守居に母と次弟を残して、兄と私と言う2人の子供を連れて、祖父の弟が院主をして居た屋島寺に行った。
 
 この時の屋島寺は、宝物の展覧会を開催して居たので、祖父は上原家の当主であった甥の右平叔父と共に手伝いに来て居た。
 
 祖父は、当時弟の院主が高松市の赤十字病院に入院をして、病気加療中であったので、寺全体の監督を兼ねた留守居役として、また、右平叔父は一般の観覧者に、宝物の一つ一つを説明する掛として、日日を過ごすのが2人の役割であった。
 
 私達親子は、屋島寺へ行くその前夜を山内村の上原家に過ごして、翌朝の早い列車で叔母と従妹の静子を加えた5人が、父の叔父である屋島寺の院主を赤十字病院に見舞ってから、叔母と従妹の静子は、山内村の自宅へ、そして私達親子は、当時既に屋島の山麓を通って居た電車に乗って、右と左に別れたのであった。
 
 
 
IMGR065-11
 
 現在では、山麓からケーブルカーの施設があるので、足の弱い婦女子にも容易に登頂が出来る屋島ではあるが、当時は未だ、昔の道中を髣髴させる駕が、唯一の登頂機関であった。
 併し、此の時の私達は、その駕には乗らずに徒歩で屋島を登ったのであった。
 
 私は、屋島寺の建立紀元については何も知って居ないのであるが、その建立をされた当時の仏教では、いづれも嶮岨な山嶽地帯を選んだのだそうであるが、徒歩による屋島の登頂には相当困難なものがあった。
 
 ともかく、私達親子は幾曲りにも曲って居る道を喘ぎ喘ぎ山頂へ登ったのであったが、その途中、中腹頃の所に茶店が一軒在ったのを覚えて居るが、その茶店の名を巷人が、“食わずの梨の茶店”と呼んで居るのだと、その時の父が教えてくれたことも今に覚えて居る。
 
 
 
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