履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
古雑誌と次郎 7の5
皮を剝いだ蝮の胴体を野蕗の葉に包んで懐に入れた次郎が、「オイ義章さんよ、苺は駄目なんだからもう帰ろうや。」と言うので「「ウン、そうだなあ、帰るとするか。」と私は、彼に同調をして二人が馬を繋いだ箇所へ歩いた。
次郎が巧みに飛び乗った馬を近くの切株に歩かせたので、私はその切株から次郎の背後に乗り移った。
走る時には薄く曇って居た空の所々に蒼空が覗いて居て、其処からの日射しが私達に影を踏ました。
また、渡船場の川辺では、美声の音頭に流送人夫が、来る時と同じようにキビキビと働いて居た。
私達が小石川さんに馬を返して次郎の家に帰り着いたのは、午后の三時頃であったが次郎の両親は「おお、帰って来たか。」と二人を笑顔で迎えてくれた。
窓らしい窓が無いので、家の中が少々薄暗い感じがしたが、天上の梁から囲炉裏に釣るされた自在鍵の鍋には、皮を剝かれた馬齢薯が蓋の隙間から白い肌を覗かせて居た。
「今に薯が煮えるから、それまでこれを食って居れや。」と次郎の母親が、片隅の大きな木箱から笊に「シシャモ」の干したのを出して来て、次郎と私の二人に勧めた。
「シシャモ」と言う魚は、体長が十二、三糎程の小魚であって、形も味もチカに良く似た魚であったが、鮭や鱒と同じように、その産卵期には必ず川に登って来る魚であった。
「シシャモ」の漁期は至極短期間であって、一週間程しか続か無かった。そしてその時期は、十一月の上旬か中旬の頃に太平洋から、鵡川川へ登ろうと群来るのを川口の付近で漁獲をして、石油箱(十八立入りの罐が二個這入る)に一箱が三、四十銭程度と言った価格で売買されて居たようであったが、それをヨムギの茎で目刺にしたものを、煮付けにするか、焼いて、食膳に載せるのが普通であった。併し、一般の家庭では、生干のうちに食い尽してしまうので、次郎の家のように、翌年の六月頃までも保存をして居る家は、稀であった。
囲炉裏の火を掻き分けて、砕けて炭火のようになった物を一箇所へ掻き集めた上へ、針金で作った手製の網渡の上にシシャモを並べて次郎が、焼き始めた時に鍋の薯が丁度煮揚った。
私と次郎が、焼たてのシシャモを副えて、これも煮揚ったばかりの薯の塩煮を、フウフウと吹きながら食べて居る傍で、次郎の父親も矢張り「シシャモ」の焼たてを副えて、プンプンと、それが丁度甘酒のような匂のする濁酒を愛奴の家庭以外では一寸見られない丼大の漆器に波々と注いで、さも楽しそうに呑んで居たが、やがてその濁酒を別の漆器に七分目程注いだ物を私に差出して、「オイ、お前これ呑んで見れや、なあに弱く造ってあるんだから、呑んでも酔っぱらうこと無いよ。」と次郎の父が勧めたので、「ウン」と頷いた私は、その濁酒を一口啜って見たのだが、その味はとても美味かった。
舌鼓を打った私は、次郎の父親を真似て「シシャモ」を肴に二杯も平げた、勿論次郎も二杯呑んだ。
「この濁酒なあ、甘く造ってあるから酔っぱらわ無いんだ。俺の親爺は酒を呑まないから何時も甘く造るんだ。」と次郎は、その甘い理由を説明した。