本日は東日本大震災より数えて3回目の3月11日でした。
アタシには宮城県に住む友人達が居ます。
あの時。
安否を確認するのに4日間。
仙台で仕事をしている彼女とやっと連絡が取れたメールには、実家が津波に流された、とありました。
友人の実家は南三陸・志津川。
報道で観る南三陸は絶望的な姿でした。友人の御両親が無事と聞いて、奇跡だと思ったのを覚えています。
宮城県の沿岸部・亘理と言う町に住む友人には、震災から1年目に町の姿を見せてもらいました。
津波と言う脅威が破壊しながら運んで来た”瓦礫”と呼ばれる震災廃棄物の山。近くに寄ると、全部「生活」に必要な物が壊れて汚れた物だと分りました。
「ここが私達の家だった所。」と友人の指差さした場所には、家の基礎だけを残して何もありませんでした。
何の言葉も持たずに、ただただ荒野の様に広がる元は住宅街だった場所に立ちすくんでいた事を思い出します。
この姿を見せてくれた友人に感謝しています。
アタシは生涯、あの傷ついた町の姿を忘れない。
家を失った友人一家は仮設住宅に暮らしていましたが、今は茨城県に移住しています。
御主人が地元ではめどのつかない仕事を待たずに転職なさり、小さなお子さんの居る家族のためにこれからの生活基盤を早めに整えたのでした。
震災から2年目に亘理を訪れた時、”はらこ飯”をいただきました。
「亘理と言えば、はらこ飯!」と言う位、亘理はこの”はらこめし”が有名です。旬の雄の鮭の身と、キラキラ輝く宝石みたいなイクラのかもし出す美味しさには本当に感激します。味は非常に優しいです。鮭を煮た煮汁でご飯を炊いています。
震災から2年を過ぎた頃、友人一家にはもう一人家族が増えました。
その命の存在を聞いた時、アタシは「希望」だと思いました。
2月で満一歳になった彼女は、間違いなく友人一家にとって明るく前向きな存在です。
慣れない新しい土地での暮らしを心配したりもしましたが、小学校1年生のお姉ちゃんを筆頭に、3人のお子さんを抱えるママは毎日が”戦い”で、時間が経つのもあっと言う間かな?などとも思います。
去年末、仙台を訪れた時に実家を津波で流された友人に会いました。
彼女からお父様が癌で亡くなられたと聞きました。
お母様はまだ仮設で暮らしています。
お父様が居なくなってしまいお母様は寂しい思いをされてると思うけれど、あなたが居るんだし、その存在がきっとお母様の支えになるよと話しました。
気付けばアタシ達はお客さんの沢山入ってる喫茶店で、食べかけのケーキを前に二人で泣いていました。
あきらめず生きていたらいいこと絶対あるから、どんな小さな下らない事でも笑って暮らして、と仙台から帰る時彼女にメールしました。
3年。まだまだ3年。
忘れていない事をどうやって伝えていったらいいんだろう。
きっとこれは生涯を通して考えてゆくことなんだろうなと思います。
そうやって考える事が「忘れないこと」なんだとも思います。
東北の観光地は、訪れる観光客が震災前に比べるとまだ少ないんだそうです。
これは秋保と言うところの秋保大滝。
仙台へ行くと友人達に会う事も旅の大きな楽しみです。
被害にあった人と被害にあわなかった人。被害のあった地域となかった地域。その境界線をなくして行くのも「復興」。
人の心の形は千差万別で、同じ物は存在しない。
でも、あの時。
傷ついた東北の町がテレビに映った時に感じた「何とかしなければ」と言う緊迫した思いは、皆同じだったはず。
とても怖かったけど、あの時の気持ちを忘れないでいよう。
そして本日は、生きて生活してる事を当たり前と思わず心から感謝する日でもありました。
上り来る太陽は世界中わけへだてなく朝を連れて来る。
東北の傷ついた町が、人々が、明るく温かな朝が来た事を実感出来る日が来ますよう。
今年も桜前線は例年と同じに東北の町にもやって来る。
咲き誇る花が、疲れた心に温もりと明るさをもたらしてくれますよう。
そこに笑顔があるように。
心から祈ります。
アタシには宮城県に住む友人達が居ます。
あの時。
安否を確認するのに4日間。
仙台で仕事をしている彼女とやっと連絡が取れたメールには、実家が津波に流された、とありました。
友人の実家は南三陸・志津川。
報道で観る南三陸は絶望的な姿でした。友人の御両親が無事と聞いて、奇跡だと思ったのを覚えています。
宮城県の沿岸部・亘理と言う町に住む友人には、震災から1年目に町の姿を見せてもらいました。
津波と言う脅威が破壊しながら運んで来た”瓦礫”と呼ばれる震災廃棄物の山。近くに寄ると、全部「生活」に必要な物が壊れて汚れた物だと分りました。
「ここが私達の家だった所。」と友人の指差さした場所には、家の基礎だけを残して何もありませんでした。
何の言葉も持たずに、ただただ荒野の様に広がる元は住宅街だった場所に立ちすくんでいた事を思い出します。
この姿を見せてくれた友人に感謝しています。
アタシは生涯、あの傷ついた町の姿を忘れない。
家を失った友人一家は仮設住宅に暮らしていましたが、今は茨城県に移住しています。
御主人が地元ではめどのつかない仕事を待たずに転職なさり、小さなお子さんの居る家族のためにこれからの生活基盤を早めに整えたのでした。
震災から2年目に亘理を訪れた時、”はらこ飯”をいただきました。
「亘理と言えば、はらこ飯!」と言う位、亘理はこの”はらこめし”が有名です。旬の雄の鮭の身と、キラキラ輝く宝石みたいなイクラのかもし出す美味しさには本当に感激します。味は非常に優しいです。鮭を煮た煮汁でご飯を炊いています。
震災から2年を過ぎた頃、友人一家にはもう一人家族が増えました。
その命の存在を聞いた時、アタシは「希望」だと思いました。
2月で満一歳になった彼女は、間違いなく友人一家にとって明るく前向きな存在です。
慣れない新しい土地での暮らしを心配したりもしましたが、小学校1年生のお姉ちゃんを筆頭に、3人のお子さんを抱えるママは毎日が”戦い”で、時間が経つのもあっと言う間かな?などとも思います。
去年末、仙台を訪れた時に実家を津波で流された友人に会いました。
彼女からお父様が癌で亡くなられたと聞きました。
お母様はまだ仮設で暮らしています。
お父様が居なくなってしまいお母様は寂しい思いをされてると思うけれど、あなたが居るんだし、その存在がきっとお母様の支えになるよと話しました。
気付けばアタシ達はお客さんの沢山入ってる喫茶店で、食べかけのケーキを前に二人で泣いていました。
あきらめず生きていたらいいこと絶対あるから、どんな小さな下らない事でも笑って暮らして、と仙台から帰る時彼女にメールしました。
3年。まだまだ3年。
忘れていない事をどうやって伝えていったらいいんだろう。
きっとこれは生涯を通して考えてゆくことなんだろうなと思います。
そうやって考える事が「忘れないこと」なんだとも思います。
東北の観光地は、訪れる観光客が震災前に比べるとまだ少ないんだそうです。
これは秋保と言うところの秋保大滝。
仙台へ行くと友人達に会う事も旅の大きな楽しみです。
被害にあった人と被害にあわなかった人。被害のあった地域となかった地域。その境界線をなくして行くのも「復興」。
人の心の形は千差万別で、同じ物は存在しない。
でも、あの時。
傷ついた東北の町がテレビに映った時に感じた「何とかしなければ」と言う緊迫した思いは、皆同じだったはず。
とても怖かったけど、あの時の気持ちを忘れないでいよう。
そして本日は、生きて生活してる事を当たり前と思わず心から感謝する日でもありました。
上り来る太陽は世界中わけへだてなく朝を連れて来る。
東北の傷ついた町が、人々が、明るく温かな朝が来た事を実感出来る日が来ますよう。
今年も桜前線は例年と同じに東北の町にもやって来る。
咲き誇る花が、疲れた心に温もりと明るさをもたらしてくれますよう。
そこに笑顔があるように。
心から祈ります。