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チャールズ国王即位後初めて政府施政方針演説を読み上げる 


[2023年11月7日22時5分]


7日、英議会で政府の施政方針演説を読み上げるチャールズ国王(ロイター)


英国のチャールズ国王が7日、即位後初めて英議会開会日に政府の施政方針演説を読み上げた。エリザベス女王が昨年9月に96歳で死去するまで長年務めてきた役目を引き継ぎ、新たな会期のスタートを告げた。

立憲君主制の英国では16世紀ごろから、政府が用意した演説内容を君主が読み上げている。エリザベス女王は約70年7カ月の在位期間で3回のみ欠席。昨年5月に医師と相談した上で見送った際は、当時皇太子のチャールズ国王が代読した。

チャールズ国王は「この国を良くしていくために、先を見据えた判断を優先させていく」と述べた。

演説は通常、政府が成立を目指す法案に触れ、君主は特定の施策に肩入れしないよう淡々と読み上げる。2025年1月までに実施される次期総選挙前の最後の施政方針演説になるとみられ、保守党を率いるスナク首相にとって、国民に主要施策をアピールする重要なチャンスとなる。

英メディアによると演説では、特定の犯罪の厳罰化や、刑罰言い渡し時の被告の出廷義務付け、たばこ購入年齢の段階的な引き上げ法案などに触れる可能性がある。(共同)

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2023年11月11日(土)08時55分

ニューズウィーク日本版ウェブ編集部


カリーヌ・ロワトフェルド Featureflash Photo Agency-shutterstock


<フランス版「VOGUE」編集長をつとめた、伝説の編集者がキャサリン妃の服装についてイギリスメディアに語った>

2001年から2011年までフランス版「VOGUE」編集長をつとめたカリーヌ・ロワトフェルドがキャサリン妃はもっとフレンチファッションを取り入れるべきだと英「タイムズ」紙に語った。

2011年に王室入りして以降、キャサリン妃は美しく洗練されているとしながらも、海を越えてフランスのブランドやファッションに審美眼を持つべきであると次のように語った。
「もっとサンローランを、もっとシャネルを、もっとフランスらしく」
しかし実際にはキャサリン妃は「イヴ・サンローラン」や「シャネル」を含めて、これまでも多くのフランスのブランドをファッションに取り入れてきている。


2022年3月にエリザベス女王の「プラチナ・ジュビリー」を記念したカリブ海ツアーでは、「イヴ・サンローラン」のコーラルカラーのヴィンテージ・ジャケットを着用。


また、皇太子妃として初めての訪米となった2022年11月のアメリカ訪問の際には、青のヴィンテージの「シャネル」のツイードジャケットを着用してバスケットボールの試合を観戦した。


また直近では2023年7月に行われたウィンブルドン選手権で「バルマン」のピスタチオグリーンのブレザーを着用している。


それでもまだキャサリン妃には「フランスが足りない」のだろうか?

カリーヌ・ロワトフェルドはまた、エリザベス女王の国葬での服装を評価しつつも、キャサリン妃は日常的に黒をもっと取り入れるべきとも助言。

「黒よ。もっと黒を。たくさんの黒を。[普段から黒い服を着用しないことが]王室のルールかもしれないけれど、私ならもっと黒を着せるわ」

実際、キャサリン妃がエリザベス女王の国葬で着用したアレキサンダー・マックイーンのコートドレスとベール帽はイギリス国内外でも高い評価を得ている。






Peter Cziborra-REUTERS


しかし、黒い服とフランスのファッションブランドをもっと取り入れるべきというカリーヌ・ロワトフェルドの助言は、果たしてキャサリン妃に届くのか? 
今後、キャサリン妃がどのようにフレンチファッションを取り入れていくのかにも注目が集まる。

ちなみに王室メンバーは不測の事態に備えて日帰りではない公務や旅行の際には、常に黒い服を持参しているという。

これは1952年にジョージ6世が急逝した際に、父の代理で夫フィリップ殿下とともにケニアを訪問していたエリザベス王女(当時)が急遽帰国した際に黒い服が到着するまで機内で待機し、着替えてから飛行機を降りたという経験によるものだという。


エリザベス女王の国葬でのキャサリン妃



アレキサンダー・マックイーンのコートドレスとベール帽はイギリス国内外でも高い評価を得た POOL New-REUTERS



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パレスチナの土地をアラブ人とシオニストの両方に約束しつつ、自分のものに――イギリスの三枚舌外交

シオニストたちが、国家建設の地と定めたパレスチナは、それでは誰が支配していたのだろうか。第一次世界大戦の終結まで、オスマン帝国という国が存在した。ここで帝国というのは”巨大な国家”という意味である。

この帝国は、現在のトルコのイスタンブールに首都を置き、ヨーロッパ、アジア、アフリカに及ぶ巨大な領域を支配していた。

パレスチナは、この帝国の一部であった。そして、そこにはイスラム教徒、キリスト教徒、そして、少数ながらユダヤ教徒も生活していたが、争いはなく仲良く暮らしていた。



シオニストたちは、まず”スルタン”と呼ばれるオスマン帝国の支配者を説得して、パレスチナへの移住を始めた。

やがて1914年に、第一次世界大戦が始まった。イギリス、フランスなどの連合国側と、ドイツ、オーストリアなどの同盟国側の戦争であった。オスマン帝国は、ドイツやオーストリアなどの同盟国側に参加した。
 


連合国側のイギリスは、同盟国側のオスマン帝国を混乱させようとした。まずオスマン帝国支配下のアラブ人に反乱を呼びかけた。戦争に勝利した後には、アラブ人の独立国家を約束した。

1915~1916年にかけて、イギリスの指導者の”マクマホン”とアラブ人の指導者の”フセイン”との間に、アラブ人の独立国家を約束する書簡(手紙)が交換された。これをフセイン・マクマホン書簡と呼ぶ。ちなみに、このフセインは、イラクのフセイン元大統領とは無関係の人物である。フセインという名は、イスラム教徒の間で多い名前なのだ。



他方でイギリスは、シオニストたちの戦争への協力も求めた。そしてシオニストたちに、戦争に勝利を収めた後には、パレスチナに国家のようなものを創ることを許すと1917年に約束した。

これは、約束したイギリスの政治家の名前(アーサー・バルフォア)をとってバルフォア宣言として知られる。一つの土地を、アラブ人とシオニストの両方に約束したわけである。イギリスの二枚舌外交であった。



しかし、1916年にイギリスはフランスともオスマン帝国のアラブ人地域を分割する約束をしていた。これを、イギリスとフランスのサイクス・ピコ協定という。サイクスとは、この協定の交渉にかかわったイギリス人、ピコはフランス人の名前である。

この「サイクス・ピコ協定」では、現在のシリアとレバノンをフランスの勢力範囲に、イラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスの勢力範囲に定めていた。
つまり、同じ土地をアラブ人とシオニストの両方に約束して、あげくの果はてには、自らのものにしようと考えていたわけだ。紳士の国イギリスならではの、三枚舌外交である。




第一次世界大戦後、パレスチナは、イギリスの支配する地域となった。具体的には、パレスチナはイギリスの委任統治領となった。誰の委任を受けているのかと言えば、第一次世界大戦後に発足した国際連盟であった。

連盟の委任を受けてイギリスは、パレスチナの人々が独り立ちできるようになるまでの期間、この土地を統治する形となった。実質上は、イギリスの領土となったが、さすがに時代も20世紀に入ると、余りにあからさまな植民地支配はためらわれるようになっていた。そこで委任統治という名目が使われた。つまり、アラブ人とシオニストに約束した土地を、どちらとの約束も守らずにイギリスは自分のものにしてしまったのだ。



イギリス王室が暮らすロンドンのバッキンガム宮殿


しかし多くのユダヤ人はパレスチナへの移住に否定的だった

こうしてパレスチナが、イギリスの支配下に入った。シオニストたちは、バルフォア宣言を根拠に、ユダヤ人のパレスチナへの移民を許可するように、引き続きイギリスに働きかけた。イギリスは、消極的ながらもこれを許した。

しかしながら、シオニストたちの努力にもかかわらず、パレスチナへユダヤ人を送り込む事業は、低調であった。多くのユダヤ人は、シオニズムに同調していなかったからだ。

多くのユダヤ人は、ドイツやイギリス、フランスでの生活を捨てようとはしなかった。成功している場合は特にそうであった。各国のユダヤ人を集めてユダヤ民族と呼び、ユダヤ人の国を創ろうという考え方に否定的であった。

 
そもそも、ユダヤ人とは誰だろうか。それはユダヤ教を信じている人を意味する。つまり、ユダヤ教徒である。とすると、イギリスのユダヤ教徒とドイツのユダヤ教徒は、同じユダヤ教徒だからユダヤ人という同じ民族だ、という論法は奇妙である。

他の宗教であれば、こうした議論はない。たとえば、イギリスのカトリック教徒とドイツのカトリック教徒は同じカトリック教徒だからと言って、カトリック人になったりはしない。それは単に、イギリスのカトリック教徒とドイツのカトリック教徒にすぎない。

タイの仏教徒と日本の仏教徒が同じ仏教徒だからと言って、仏教徒人などにはなりえない。

 
多くのユダヤ人、つまりユダヤ教徒は、各国のユダヤ教徒を一つの民族と考えるシオニズムには否定的であったのだ。

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福岡県北九州市生まれ。大阪外国語大学ペルシア語科卒業。コロンビア大学国際関係論修士。クウェート大学客員研究員等を経て、現在、放送大学教授。『燃えあがる海――湾岸現代史』(東京大学出版会)、『アラブとイスラエル――パレスチナ問題の構図』(講談社現代新書)、『イランとアメリカ――歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』(朝日新書)、『現代の国際政治』(放送大学教育振興会)など著書多数。


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