★歳とともに筆無精というか、書くことが面倒になってきたようです。このブログも、本家「麻布十番未知案内」のコラム「店声仁語」も書く間隔が延びてきて我ながらボケの前兆かとがっくりです。「十番だより」4月号への寄稿文をまた載せて、ブログのブランクを埋めることに・・・。(-.-)
DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見! ─ 3 ─
先月号エノケンさん(榎本健一さん)の写真に写っていた女性は、コロンビアレコードの音丸さんです。エノケンさんと同じ麻布十番の出身です。明治39年(1906)麻布箪笥町(現六本木一丁目辺)の履物屋の一人娘として生まれた音丸さんは本名永井満津子さん。生家の履物屋は麻布十番に移転し現在の十番郵便局の辺りで商っていました。小さいときから美声で、常磐津、日本舞踊、橘流筑前琵琶、春日派小唄と芸達者な娘さんだったようです。ご近所の民謡の会に出席して、乞われて披露した民謡の勘の良さと美声が絶賛され、昭和9年(1934)リーガルレコードから本名で「草津湯も
み唄」を、テイチクから「泪の京人形」を吹き込んでレコードデビューします。小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していた頃で、芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない歌手として下駄屋のお内儀である彼女がスカウトされ、この年9月正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューします。芸名「音丸」は同年に吹き込んだ「君は満洲」からで、その由来は「音は丸いレコードから」という洒落からです。翌昭和10年(1935)の「船頭可愛や」が大ヒット、「下田夜曲」「博多夜船」とヒットが続き一躍アイドルになります。デビューが28才で主婦というのも、今では考えられませんね。「下駄屋の姉御!」というファンの掛け声に「よくご存知」と返す腹の据わったアイドル?だったようです。
その音丸さんは昭和12年(1937)に十番稲荷神社の前身末広神社に狛犬を寄付しています。写真は戦災を免れ、今も十番稲荷神社にある狛犬を昭和27年(1952)2月に復興したときのものです。後ろの社も鳥居も小さく質素なもので、狛犬が大きく見えますね。
音丸さんは数多くの民謡を世に出していますが、「五木の子守唄」もその一つです。美空ひばりさんがまだ美空和枝の芸名のとき、音丸さんの前座歌手をつとめていて地方巡業中にバス事故にあったことはよく知られています。その音丸さんは麻布十番の下駄屋の娘さんでした。
DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見! ─ 3 ─

み唄」を、テイチクから「泪の京人形」を吹き込んでレコードデビューします。小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していた頃で、芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない歌手として下駄屋のお内儀である彼女がスカウトされ、この年9月正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューします。芸名「音丸」は同年に吹き込んだ「君は満洲」からで、その由来は「音は丸いレコードから」という洒落からです。翌昭和10年(1935)の「船頭可愛や」が大ヒット、「下田夜曲」「博多夜船」とヒットが続き一躍アイドルになります。デビューが28才で主婦というのも、今では考えられませんね。「下駄屋の姉御!」というファンの掛け声に「よくご存知」と返す腹の据わったアイドル?だったようです。

音丸さんは数多くの民謡を世に出していますが、「五木の子守唄」もその一つです。美空ひばりさんがまだ美空和枝の芸名のとき、音丸さんの前座歌手をつとめていて地方巡業中にバス事故にあったことはよく知られています。その音丸さんは麻布十番の下駄屋の娘さんでした。