麻布十番未知案内 BLOG編

麻布十番のこと、赤い靴の女の子「きみちゃん」と「きみちゃんのチャリティー」のこと(HP編 http://jin3.jp)

★ 秋分

2019年09月25日 | 店声仁語

    二十四節気「秋分」 

 近況報告のつもりで二十四節気ごとに親しい友人に書き始めた「季節のたより」でした。二週間に一度、400余字の文章を書くのは頭の体操ボケ防止にもちょうどいいと書き続けて10年になります。悪筆なのでハガキや便せんに書くのは苦手ですが、パソコンは忘れていた漢字も使ってくれますし書き続けることが出来たのでしょう。三年前からはフェイスブックにも転載して拙文の恥の上塗りのようなことをしていますが、「書くこと」を忘れないようにと思っています。話し言葉と違って、短い文章でも「書くこと」はいろいろ考えながら言葉を探すことがあります。やはり頭の体操ですね。
 「秋分」、古い歌のように「♫三日遅れのたより」になってしまいましたが、三日間書き悩んでいたのではなく、単純にチコちゃんしていたようです。そう「ボ~と生きていた」ようです。私事ですが22日は父の祥月命日、もう47年も過ぎたんだとあらためて時間の早さを感じていました。お墓参りの墓地にも台風の被害があったようですが、わが家のシンボルツリーの白樺も真半分に折れてちょっとがっかりしています。それでも折れたところから新芽が出てきたのを見て生命力の強さを感じているところです。

 二十四節気「秋分」、いつものNPO“PTPL”の映像をご覧下さい。
   秋分  9月23日~10月7日
  
 http://www.tomoiki.ptpl.or.jp/calendar/2019/iframe/24sekki/24sekki16.php   (01:07)
   
秋の彼岸。暑さもおさまり、みのりの秋を迎える。

 2019.9.23.

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★ 白露

2019年09月25日 | 店声仁語

★ 白露
 先週の金土日と蓼科車山に行って来ました。毎年のように行く車山ですが
8月の終わりに行ったのは初めてでした。いつものように車山の宿から八島湿原一周コースを歩いて、車山のリフトで山頂へ、車山肩の山小屋「コロボックル」でミルクココアと厚切りのトーストを食べるのですが、TVでコロボックルのトーストを紹介していたせいか昼過ぎにトーストは品切れになっていました。TVの影響ってすごいですね。
初日に雨にあったこともあり、もし雨で山歩きが出来なかったら八ヶ岳美術館と蓼科水族館に行こうと計画していたのですが幸い二日目からは天気に恵まれて山歩きも出来ました。帰り道、調べていた蓼科水族館に寄ってみると山の中にしては大きな施設でそこそこ楽しめました。八ヶ岳美術館は原村村立美術館、日本を代表する建築家・村野藤吾の設計の建物に原村出身の彫刻家・清水多嘉示の彫刻と絵画、原村出身の書家・津金寉仙の書や村内各遺跡の発掘調査により出土した縄文土器や石器などの貴重な考古学遺物を美術作品と併せて展示していました。屋外の散策路では彫刻の屋外展示と共に四季折々の山野草が楽しめ、地元中学校の卒業作品が展示されているのもユニークでした。何時もの夏休み帰路もいつもの渋滞、居眠りしそうな三日間
548kmのドライブでした。

二十四節気「白露」、秋ですね。十三日は中秋の名月です。晴れるといいですね。
いつものNPO“PTPL”の美しい映像をご覧下さい。

  白露 9月8日~9月22日
    http://www.tomoiki.ptpl.or.jp/calendar/2019/iframe/24sekki/24sekki15.php   1:19
   朝、草花に白露の宿っているのを見る。台風のシーズンとなる。

 2019.9.8.

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★ 処暑

2019年09月25日 | 店声仁語

白樺★  処暑

「処」には落ち着くという意味もあり、「処暑」は暑さが終わっていくころ。
樹高が高くなりすぎて、春に剪定の高枝バサミが届かなかった白樺の枝が通りゆく歩道の人を優しく涼しげな緑の葉風をゆらしている。すっかりわが家のシンボルツリーになった白樺の木は見上げる高さ育って、ビルの角に残された小さな三角の土にしっかりと根を張っている。白樺の根もとに植えたビル名「ローリエ」の月桂樹が二本、寄りそってコンクリートの味気なさをカバーしてくれる。昼間の暑さが少しやわらいて朝夕の涼しさを緑の風に感じるころ、二十四節気「処暑」。秋がそこまできているようです。

二十四節気「処暑」、いつものNPO“PTPL”の美しい映像をご覧下さい。 

  処暑 8月23日~9月6日
  朝夕はいく分かしのぎやすくなり、昼間の短くなったことを感じる。

     http://www.tomoiki.ptpl.or.jp/calendar/2019/iframe/24sekki/24sekki14.php   

 2019.8.22.

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★ 智子

2019年09月25日 | 店声仁語

★ 智子が逝って25年になる。8月15日。
 
 御茶ノ水の学生街の喫茶店で働いていた智子にはじめてあったのは50余年も前、大学一年の時だった。クラブの溜まり場だったその店には教室よりもしげく通っていた。智子とは同い年ということもありクラブの仲間たちと一緒によく語り飲み明かした。智子は宮城県白石市の生まれ、父親は戦死、母親は3人の子供を抱えて過労から病死し、親類に引き取られ兄弟とも別れてひとり上京したのは小学校の時だった。御茶ノ水の中学校を出るとすぐに、親類の経営するその喫茶店を手伝うようになった。
 明治大学グリークラブ、男だけのクラブに唯一女性の部員のような存在の智子は、その後、兄弟も相次いで亡くし天涯孤独になったが、とにかく明るい娘だった。それから35年間、智子は部員の良き友として、良き姉として、良き母として歳を重ねていった。明治大学を卒業と言うよりグリークラブを卒業と言うほど男声合唱の好きな仲間達は、やがて結婚する多くのグリークラブOBが智子を結婚式に呼んだ。女房子供を連れて里帰りするように智子いる店を訪ねた。智子もまた部員の名前だけでなく奥さんの名前も子供たちの名前も誕生日までも覚えていた。
 そんな智子がまだ53歳の若さで亡くなったのは平成6年8月15日だった。身寄りのない智子の葬儀は、明治大学グリークラブOB会が中心になり無宗教で行われた。夏休みで帰郷中のOBが全国からかけつけ、花にかこまれた簡素な祭壇にはグリークラブの演奏テープの歌声が絶えることなく流れ、献花が続いた。愛唱歌を歌い、明治大学の校歌を歌って棺を送る男たちは皆泣いていた。「おやじの葬式でも泣かなかったのに・・・」と言った友人の言葉を今でも思い出す。後日、智子の遺品を整理していた後輩は、荷物の中に結婚式の為に用意してあったのか未使用の祝儀袋の束を見つけた。行かなかった、行けなかった都立九段高校の合格通知書を見つけた。今年もまた何人かのOBが仙台郊外の墓地に眠る智子のお墓参りに行く。
 8月15日、智子が逝って25年になる。

 2019.8.15.

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