麻布十番未知案内 BLOG編

麻布十番のこと、赤い靴の女の子「きみちゃん」と「きみちゃんのチャリティー」のこと(HP編 http://jin3.jp)

★赤い靴の女の子「きみちゃん」のお話をもう一度・・・(1)

2009年09月30日 | 赤い靴
DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見   -19-
  赤い靴の女の子「きみちゃん」 -2-

 きみちゃんの像がパティオ十番に出来たのは平成元年2月ですから、もう20年になります。地元に住んでいながらきみちゃんのお話を詳しく知らなかったり忘れてしまったという方が意外と多いのではないでしょうか。きみちゃんのリーフレットに書かれた文章も、実は当時広報を担当していた私が書いたものです。短くわかりやすく書こうと思いながら、いつしかきみちゃんの生い立ちに涙しながら書いていたことを昨日のように思い出します。リーフレットの文章をそのまま転載してみます。

 誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年(1921)に野口雨情によって書かれ、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したものです。この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。
 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地、現在の静岡県静岡市清水区をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。
 女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年(1907)のことです。
 鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。明治41年(1908)、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
  「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」
 雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
  「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。雨情は、また夭折した長女を「♪・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・」と童謡「シャボン玉」に詠ったと言われています。
 後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「♪赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。       つづく

コメント
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