(タウン雑誌・月刊とーかつ倶楽部・1994/9月号(童話のひろばに掲載)
狢筆(むじなふで)
「昔々、弘経寺の境内の祠に、狢がいたど」
「ばぁちゃん、ムジナってなに?」
「おっきなフグリぶら下げた、ふるうだぬきだど。その狢がな、自分の尻尾に墨つけて書かせたんだど。それがキッカケになって、おみつという娘が大書道家になったんだとさ」
「ダイショドウカってなに? フグリってなんなの?」
「立派な字書く人だ。その狢がな、宗運という坊様に化けて、尻尾を太い筆に変えて、書かせたんだと。フグリはぁ……またあとでな」
「ボクもムジナのシッポにすみつけて書けば、お習字がもっと上手になるかなぁ」
「狢の尻尾でなくてもいいさ。茂雄も学校から帰ったら、うんと沢山書いてみな」
小学二年生の茂雄は、ばぁちゃんに聴いた話を、友だちの浩に聴かせた。
「ヒロちゃん、ムジナっているかな」
「ムジナでなくても、いいんじゃないの」
「そうかなぁ。ネコでもいいかなぁ」
「大丈夫だよ、きっと。こたつの上にいるミャーコを、つかまえよう」
「ウギャッ、ギャニャーッ、ギャッギャッ」
「イテーッ。ヒロちゃん、ネコはだめだよ」
「イテティ。こんどは、ぼくんちのジョンにしよう」
「ジョンが目光らせておこっているよ」
「しょうがねぇなぁ。そうだ、いいこと考えたぞ。いもうとのぬいぐるみにしよう」
「このタヌキのシッポで書いてみるか」
「一を書くぞ」
「ウワッ、字が動いているみたいだよっ」
「ムジナのフグリだっ」
どうしても弘経寺の祠を見たくなった茂雄は、ばぁちゃんにせがんで電車に乗った。
常磐線の取手駅から常総線に乗り換え、水海道駅で降りそこからバスに乗った。
茂雄はウキウキしていた。もしかして、古狸のフグリも見ることが出来るかもしれない。
弘経寺は、大きくて古い寺だ。境内に入ると、ひんやりとした風が吹いている。杉が雲に突き出るように、聳えていた。
黒い衣を着た坊様が現れた。茂雄は、宗運に化けた狢かもしれないと思った。
「ようこそ、千姫様縁の寺で、千姫様の遺品が展示されております。どうぞ、ごらんになって下さい」
坊様は両手を合わせて言った。
時代劇の好きなばぁちゃんは、目を光らせると「茂雄もおいで」と言って、坊様の後に従った。
本堂の横の玄関から入ると、曲がった廊下を、坊様は音もなく歩いて行く。
ばぁちゃんは、いくらか曲がった腰に手を当てながら、スリッパを鳴らしてついていく。茂雄も小走りにその後に続いた。
「これが千姫様のお使いになった硯です。こちらがお着物で、こちらは、お書きになったものですよ」
坊様は、本堂の鴨居に掛けてある額を指さした。大きな字で『弘経寺』と書いてある。
「千姫様は、大書道家だったようですよ」
坊様は、しみじみと眺めて言った。
「ばぁちゃん、ホコラがどこか聞いてよ」
茂雄は小さい声で言って、ばぁちゃんの上着の裾を引いた。
「あのう、坊様、宗運狢の祠はどこでしょう」
「ああ、祠ですか、ご案内します」
先に立った坊様は、黒い衣をひるがえして玄関を出ると、境内の中央に聳える、杉の側の祠に近づいた。
ばぁちゃんと茂雄は、ちいさな祠を覗いたが何も見えない。
「ばぁちゃん、ムジナはいるかな」
「さぁな。おや? あれは」
「なにかいるの?」
「う~ん。なんだろう、へんだね」
ばぁちゃんは、首を傾げている。
茂雄は目を凝らして祠を見たが何もない。
「茂雄、こっちへ来てごらん」
ばぁちゃんの居た所に立って見ると、茂雄によく似た男の子が、怪訝な顔でこちらを見ている。ばぁちゃんが顔を近づけると、祠の老女も顔を近づけた。
「おや、誰だろう、こんな悪戯をしたのは」
坊様が祠の中から鏡を取りだした。
「茂雄、さぁ帰ろう。坊様、今日はありがとうございました」
茂雄は、ばぁちゃんに手を引かれながら、何故かとても残念な気がした。
家に帰ると直ぐ、茂雄は自分の部屋に閉じ籠もった。
半紙を広げ墨の匂いを嗅ぎながら、千姫様の書いた『弘経寺』という文字を思い出していた。そして、いつか必ず、狢に会いたいと思った。
狢筆(むじなふで)
「昔々、弘経寺の境内の祠に、狢がいたど」
「ばぁちゃん、ムジナってなに?」
「おっきなフグリぶら下げた、ふるうだぬきだど。その狢がな、自分の尻尾に墨つけて書かせたんだど。それがキッカケになって、おみつという娘が大書道家になったんだとさ」
「ダイショドウカってなに? フグリってなんなの?」
「立派な字書く人だ。その狢がな、宗運という坊様に化けて、尻尾を太い筆に変えて、書かせたんだと。フグリはぁ……またあとでな」
「ボクもムジナのシッポにすみつけて書けば、お習字がもっと上手になるかなぁ」
「狢の尻尾でなくてもいいさ。茂雄も学校から帰ったら、うんと沢山書いてみな」
小学二年生の茂雄は、ばぁちゃんに聴いた話を、友だちの浩に聴かせた。
「ヒロちゃん、ムジナっているかな」
「ムジナでなくても、いいんじゃないの」
「そうかなぁ。ネコでもいいかなぁ」
「大丈夫だよ、きっと。こたつの上にいるミャーコを、つかまえよう」
「ウギャッ、ギャニャーッ、ギャッギャッ」
「イテーッ。ヒロちゃん、ネコはだめだよ」
「イテティ。こんどは、ぼくんちのジョンにしよう」
「ジョンが目光らせておこっているよ」
「しょうがねぇなぁ。そうだ、いいこと考えたぞ。いもうとのぬいぐるみにしよう」
「このタヌキのシッポで書いてみるか」
「一を書くぞ」
「ウワッ、字が動いているみたいだよっ」
「ムジナのフグリだっ」
どうしても弘経寺の祠を見たくなった茂雄は、ばぁちゃんにせがんで電車に乗った。
常磐線の取手駅から常総線に乗り換え、水海道駅で降りそこからバスに乗った。
茂雄はウキウキしていた。もしかして、古狸のフグリも見ることが出来るかもしれない。
弘経寺は、大きくて古い寺だ。境内に入ると、ひんやりとした風が吹いている。杉が雲に突き出るように、聳えていた。
黒い衣を着た坊様が現れた。茂雄は、宗運に化けた狢かもしれないと思った。
「ようこそ、千姫様縁の寺で、千姫様の遺品が展示されております。どうぞ、ごらんになって下さい」
坊様は両手を合わせて言った。
時代劇の好きなばぁちゃんは、目を光らせると「茂雄もおいで」と言って、坊様の後に従った。
本堂の横の玄関から入ると、曲がった廊下を、坊様は音もなく歩いて行く。
ばぁちゃんは、いくらか曲がった腰に手を当てながら、スリッパを鳴らしてついていく。茂雄も小走りにその後に続いた。
「これが千姫様のお使いになった硯です。こちらがお着物で、こちらは、お書きになったものですよ」
坊様は、本堂の鴨居に掛けてある額を指さした。大きな字で『弘経寺』と書いてある。
「千姫様は、大書道家だったようですよ」
坊様は、しみじみと眺めて言った。
「ばぁちゃん、ホコラがどこか聞いてよ」
茂雄は小さい声で言って、ばぁちゃんの上着の裾を引いた。
「あのう、坊様、宗運狢の祠はどこでしょう」
「ああ、祠ですか、ご案内します」
先に立った坊様は、黒い衣をひるがえして玄関を出ると、境内の中央に聳える、杉の側の祠に近づいた。
ばぁちゃんと茂雄は、ちいさな祠を覗いたが何も見えない。
「ばぁちゃん、ムジナはいるかな」
「さぁな。おや? あれは」
「なにかいるの?」
「う~ん。なんだろう、へんだね」
ばぁちゃんは、首を傾げている。
茂雄は目を凝らして祠を見たが何もない。
「茂雄、こっちへ来てごらん」
ばぁちゃんの居た所に立って見ると、茂雄によく似た男の子が、怪訝な顔でこちらを見ている。ばぁちゃんが顔を近づけると、祠の老女も顔を近づけた。
「おや、誰だろう、こんな悪戯をしたのは」
坊様が祠の中から鏡を取りだした。
「茂雄、さぁ帰ろう。坊様、今日はありがとうございました」
茂雄は、ばぁちゃんに手を引かれながら、何故かとても残念な気がした。
家に帰ると直ぐ、茂雄は自分の部屋に閉じ籠もった。
半紙を広げ墨の匂いを嗅ぎながら、千姫様の書いた『弘経寺』という文字を思い出していた。そして、いつか必ず、狢に会いたいと思った。