紫陽花記

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別館★写真と俳句「めいちゃところ」

お婆が消えた

2020-09-28 07:13:03 | 風に乗って(おばば)


  お婆が消えた 

暑くもなく寒くもなく、空は青いそよ風の峠に、何か足りないものがあった。
 あの元気なお婆の姿が無いのだ。茶処の、暖簾は下ろされ、入口の戸は閉まったままだ。
 峠を越える旅人の噂に、村人が集まった。
 茶処の、ガタつく戸をこじ開けると、今にも戻って来そうに、何もかもそのまま。
 戸棚の中には、開けたばかりの茶が缶に入っているし、磨き込んだヤカンは五徳の上。急須と茶碗は、豆絞りの手拭いを掛けられ、奥の棚にはおはぎが二つ。
「四、五日前から居なかったみたいだな」
 村の物知り松つぁんが、おはぎの皿を高々と上げて言った。
「ほうれ見ろ、おはぎのあんこが、カビ吹いたまま固くなっている」
「そう繁盛もしていなかったようだが、一人暮らすには、困らなかっただろうに」
 計算高く村一番の金持ちの常吉が言った。
「そう言えば、お婆と、掛け合い漫才みたいに騒いでいた、あのカラスも居ないな」
「おかしなカラスだったな、人の言葉が分かって。お婆とは、息が合っていたな」
 村人たちは、口々に言いたいことを言い合って、峠を下り掛けた。
「あれっ、こんな所にこんな物が」
 青味がかった、一抱えもあるような石が、路傍に立っていた。その石は、背を丸めた老婆のようなづんぐりとした形で、肩に、カラスでも留まらせたような姿をしていた。
「お婆……だ」
 ざらついた石の表面に、黒々と墨で、右下がりの文字が躍っていた。
『よろず屋に 関わり合った皆々様
 気を付けてとおりゃんせ
 いずれそのうち またいつか…ばば』

クワバラ

2020-09-16 05:45:46 | 風に乗って(おばば)


  食は腹(クワバラ

 三つ又に来て立ち止まった。
 いつものことだが迷いが生じる。
「バッバー、右がいいに決まっているだろう」
 じれったそうにカラスが言った。
「そうは言っても」
 この前、茶の仕入れに行ったときは左の道を行った。石ころ道で、折角の、おろしたての下駄を割ってしまった。
 お婆は、いつものように、履いている駒下駄を空に向けて放った。宙で一回転した下駄が、斜めに減った歯を見せて転がった。
「ほうら、右だぜ。行こうぜバッバー」
「そりゃあ、こっちの道は、花は咲いているし、鳥も蝶もウサギも蛇も可愛いよ。だけど」
「大丈夫だぁ、オイラがついているぜ」
「あの、ガマだけは嫌なんだよ」
「バッバー、春だねぇ。羽毛をこんころもちいい風がくすぐるぜぇ」
「シィーッ。ガァガァ騒ぐんじゃないよ。聞こえるだろう、あの声。クワバラ、クワバラ」
 お婆の頬が緊張で強ばった。菜の花の群れに沿ったせせらぎの近くから、その声が響いてきた。
 お婆は足を速めた。行く手の草むらから、黒い塊がノソリと跳んだ。尻餅をついたお婆の目の前を、横切ったその目は、お婆以上に恐怖に戦いていた。

「これがうめぇんだ。食いねぇ」
 茶問屋の親父が、香ばしい串焼きを、お婆の目の前に差し出した。ギョロリと剥いた目、両手足が宙を掴んでいる。
「ものは試しさ。ちっと、食ってみねぇ」
 手を振り断るお婆に、親父が畳みかける。
 お婆は、前歯で少し噛み切った。塩が効いている。淡泊だが、噛むほどに味が増す。
「バッバー、そ、それは」カラスが叫んだ。