お婆が消えた
暑くもなく寒くもなく、空は青いそよ風の峠に、何か足りないものがあった。
あの元気なお婆の姿が無いのだ。茶処の、暖簾は下ろされ、入口の戸は閉まったままだ。
峠を越える旅人の噂に、村人が集まった。
茶処の、ガタつく戸をこじ開けると、今にも戻って来そうに、何もかもそのまま。
戸棚の中には、開けたばかりの茶が缶に入っているし、磨き込んだヤカンは五徳の上。急須と茶碗は、豆絞りの手拭いを掛けられ、奥の棚にはおはぎが二つ。
「四、五日前から居なかったみたいだな」
村の物知り松つぁんが、おはぎの皿を高々と上げて言った。
「ほうれ見ろ、おはぎのあんこが、カビ吹いたまま固くなっている」
「そう繁盛もしていなかったようだが、一人暮らすには、困らなかっただろうに」
計算高く村一番の金持ちの常吉が言った。
「そう言えば、お婆と、掛け合い漫才みたいに騒いでいた、あのカラスも居ないな」
「おかしなカラスだったな、人の言葉が分かって。お婆とは、息が合っていたな」
村人たちは、口々に言いたいことを言い合って、峠を下り掛けた。
「あれっ、こんな所にこんな物が」
青味がかった、一抱えもあるような石が、路傍に立っていた。その石は、背を丸めた老婆のようなづんぐりとした形で、肩に、カラスでも留まらせたような姿をしていた。
「お婆……だ」
ざらついた石の表面に、黒々と墨で、右下がりの文字が躍っていた。
『よろず屋に 関わり合った皆々様
気を付けてとおりゃんせ
いずれそのうち またいつか…ばば』