紫陽花記

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別館★写真と俳句「めいちゃところ」

★10 蜘蛛

2024-04-27 08:11:29 | 風に乗って(風に乗って)17作

 梅林入口の駐車場に車を停めた。
 秋の梅林って、どんなものだろうと思いながら入っていく。山の南斜面の梅林には人影もなく、梅の葉が僅かに残っている。

 梅の枝に張った蜘蛛の巣に、揚羽蝶が一匹引っ掛かっていた。蜘蛛の糸に絡んだ足を動かし、羽を震わせている。 
 私はベタつく糸を端からちぎった。やがて蝶は、二、三回羽ばたくと舞い上がり、梅の葉を掠めて飛び去った。
 
 気が付くと私が蜘蛛の糸に巻かれていた。光る網の向こうに、四、五センチもありそうな蜘蛛が居る。細い糸が徐々に私の体を絞めつけてくる。
 梅林の坂道を男が上って来た。「助けて」と言う私の声に男は立ち止まった。が、私は後の言葉を続けなかった。これから何をする予定も、何処へ行く気も無かったからだ。
 男は目の前を通り過ぎて行った。
 
 私は全身の力を抜いて、蜘蛛の巣に体を預けた。つま先は地面に着いている。膝を曲げた。体が宙に浮いて揺れた。私は体を揺れるに任せた。

 眼下に広がる田園は、冬支度をしている。陽を浴びて、籾殻焼きの煙が一直線に空に向かっている。三つ二つ浮かぶ雲に誘われるように、何処までも高く上っていく。
 音もなく飛行機雲が空を横切り、西の方へ消えていった。 
 視線を移すと、筑波学園のビル群が緑の中に立ち並んでいて、白く日差しを反射させている。

 茶褐色の蜘蛛は、梅の枝に張った糸を端から食べ始めた。 
 私の体の周りの糸も、いまはあらかた食べつくされた。




★著書「風に乗って」から、シリーズ「風に乗って」17作をお送りしています。楽しんで頂けたら幸いです。
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★9 都会の空間

2024-04-21 15:55:24 | 風に乗って(風に乗って)17作


都庁第二庁舎前の三十階建てのビル。以前来たことのある新宿モノリスビルの隣だ。
 迷うことなく来ることが出来た。入っていくと、フロアーが薄暗い中に広がっている。真上に吹き抜けている空間の壁に、大時計が長い針を動かしていた。
 私は三階にある東洋医学研究所を探した。
 三年前の夏エアコンで冷やした体。それからずうっと左半身が痛く、悩まされていた。新聞の記事で知った鍼灸を、試してみようと思ったのだ。電話予約をしていたので、十一時前には受付を済ませるつもりだ。

 吹き抜けを取り巻くように通路が続いていた。所々にあるドアにはそれぞれの事業所の名称がある。確かめながら歩いていると東洋医学研究所の文字があって、矢印が見えた。

「あらあったわ。ここだわ」と言いながら八十歳位のおばぁさんが私の前を遮った。矢印に沿って歩いていく。おばぁさんは少し足を引き摺っている。きっと神経痛か何かなのだろう。

 前を歩くおばぁさんは早足だ。私は当然のように続いた。何度か矢印の赤色が目の端を通り過ぎた。
 長時間歩いたような気がする。時計を見ようとしたが、私の腕には時計がない。
 おばぁさんはトイレに入った。
 私はトイレの入り口で待つことにした。

 いつまでもおばぁさんは出て来ない。いい加減待ってから私は、なぜあのおばぁさんを待っているのだろうと思った。おかしな先入観で後に従って歩いていたのかもしれない。

 東洋医学研究所の受付に立った時、すでに待合室の壁の時計が午後三時を過ぎていた。
 私は、おばぁさんの狸のような目を思いだした。
 疲れと、空腹が押し寄せて来た。





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★8 真昼の宇田踏切

2024-04-13 06:59:44 | 風に乗って(風に乗って)17作

 
宇田踏切の警報機が鳴り出したので、ブレーキを踏んだ。上りの矢印が、赤く点滅している。開かずの踏切の異名を持つ程に、一旦鳴り出すと、なかなか通れない。
 向こう側で、咥え煙草の五十がらみの男が、貧乏ゆすりを始めた。

 私は、下り方向を見た。まだ列車の姿はない。いつもなら、すかさず下り矢印も点滅するはずなのだが。
 男に目を移した時、その姿は踏切内に入り線路を歩き出していた。枕木を確かめるように見ながら急いでいる。
 百メートル先の、広地川の鉄橋に向かっていく。列車が線路を震わせてきた。
「あぶないっ」
 私の叫び声など聞こえるはずもなく、鉄橋を渡り出した男が、上り列車に巻き込まれたようだ。列車は私の目の前を、速度を落とさずに走り去った。

「どうしよう、警察に、で、でんわ・・・」
 私は、震える手でドアを開けようとした時、鉄橋の上で人影が動いた。枕木に掴まって鉄橋にぶら下がってでもいたのか、這い上がるように、体を起こした。腹や膝の汚れを手で払った男は、また歩き出した。
 ブレーキを踏みこんでいる足を外した時、再び、警報機が鳴り出した。
 私の乗った車を揺り動かして、上下の列車が通過していく。

「中高年の失業者が増え、再就職の難しい時代となった」と、カーラジオから聞こえてきた。
 やっと、警報機が鳴り止んだ。
 さっきの男が、真新しい煙草を咥えて踏切を渡り、私の車の横を通り過ぎて行った。
 私は、バックミラーの男の背を見送った。




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★7 泥の中 

2024-04-07 07:01:19 | 風に乗って(風に乗って)17作


 
泥に足を取られてひっくり返った。
 手をついた所からズルズルと、ぬかるみにはまりこんでいく。腕の付け根まで引き込まれた時、隣の奥さんが通りかかった。
「奥さん。お願い。助けて」
「ごめんなさい。わたしこれから出掛けるの」 
 隣の奥さんは、泥でも引っかかったら困るとばかり、遠回りして行ってしまった。

 泥の中には掴まるものは何もなく、踏みとどまる物もない。全身が深みに入っていく。
 顔の造作を全部集めるほど、力を入れて目をつぶった。侵入してくる泥を吸い込まないように、鼻の穴を閉じて、息を殺した。
 苦しい状態の中で、フワリと体が楽になった。体が楽になった時、思い切って目を開けて見ようと思った。
泥の中は、どんなに汚く冷たいものか、見てみたいという気がして目を開けた。
ドロドロのヌメリは、始めは気持ちが悪く目の端から入り込んで、何も見えなくしてしまった。目をしばたくと、ジャリッと音でもするように動く。堪え切れなくて息を吐いたが、苦しさに負けて深く吸い込んだ。
行ってしまった隣の奥さんが憎くなる。

花が咲いている。見たことのあるような形の花。泥の中なのに汚れていない。薄い水色の花びらは八枚で、手のひらほどの大きさだ。風でも吹いているように揺れて、ほのかな香りを出している。私の吸い込んだものの中にも、漂っている。固くなっていた体をほぐしてみた。緩くなった腕を広げ、泥水を体中の血管に送り込んでみたくなった。

見上げると、冬の陽を浴びた隣の奥さんが、肥えた足でスキップを踏んできた。ぶら下げた百貨店の袋の裂け目から、糸でも切れたのか、真珠の粒が転がり落続けていた。




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