猿ぐつわ
女の影が藍色の峠に吸い込まれそうだ。
「行くのかい」
お婆は叫んだ。振り返った女の口に、猿ぐつわがくい込み目だけが光った。
「雨が降りそうだよ。一晩泊まって行きな」
女がかぶりを振った。足元にある大きな袋に手を掛け、少し頭を下げた。
「袋にぁ、何が入っているのさ。その荷が重けりゃあ、ここへ、ちょっとは置いて行きな」
女の目が笑った。
「苦しくないのかい」
お婆の声に、女が、猿ぐつわを「ぐいっ」と、締め直した。途端に、大粒の雫が頬を転がった。
「苦しけりゃあさぁ、少しは……」
峠の向こうへ目を据えた女に、お婆は腰を屈め、喉をぜいぜい言わせながら追いすがった。
「なんで、何も言わないのかね。その猿ぐつわをとってさぁ」
女が、袋を引きずり歩き出した。黄昏の峠には靄がかかり、細い道がくねって続いていた。穏やかだった山肌に風が立ち、中天を突く杉の梢が騒立ち始めた。
女の背が、僅かに丸まった。
お婆は立ち止まった。
水分を含んだ風が雲になり、瞬く間に辺りの色を深くしていった。
女が、再び振り向き、掠れた微笑みを見せた。そして、足を速めた。
「ああ、止めやしないよ……」
切り株に座り込んだお婆を見かねて、杉木立の中から、カラスが顔を出した。
「バッパー、オイラが隣村まで送っていかぁ」
首にランプをぶら下げたカラスが、女の後を追い飛び立った。
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