健太が旅に出てすぐのことだ。
「おい、チビ。ちょっと待てぇ」
ひげ面の大男が両手を広げた。
「大荷物だな。何が入っているんだ」
毛むくじゃらな腕を突き出し、背負っているリックに手を掛けた。
「なんだよ。食い物ばかりじゃないか」
「先のことが分からないから心配で」
「食パンに餃子、バナナにアンパン。それにハンバーグとおにぎり。まったく、まるで幼稚園児の遠足だな」
「……」
「十一歳だって? お前、甘ちゃんだろ。おっかさんか? 詰めたのは」
「いや。姉もです」
「姉ちゃんがいるのか。姉ちゃんはいくつだ」
「十六。すみません。ここを通して頂くにはどうすれば」
「リックごと置いて行け」
「食べ物がなくなったら困ります」
「大丈夫だ。先に行けば食い物には困らないよ。大抵、食い物なんか持って行かないぜ。とにかく通る挨拶はするものだ」
「よろしくお願いします」
「お前は道に迷うことはない。欲が無さそうだからスムーズに行ける。右の壁に何処までも沿って行け。後は行ってのお楽しみだ」
健太は大男の言うように右に右にと行く。何があるか、先の期待で胸が膨らんでくる。
母娘らしい二人に追いついた。やはり二人とも何も持っていない。さっきまで一緒に居たらしい家族の話をしながら歩いて行く。
「食い過ぎて腹が痛ぇー」
さっきの大男の悲鳴が後ろからした。
健太は急に不安になった。本当に右側に沿って行けばいいのだろうか。
やっと一人通れるほどの道なのに、標識は右側通行と書いてある。両側は高い壁になっている。健太は右手で壁に触りながら進む。古いレンガの壁が、人の手垢で光っている。
進むにつれ前方の光が増してきた。視界が開け目の前に雑木林が広がった。
獣道を右に向かった。
「ぼうや、一人?」
健太の母親と同じ年頃の女が微笑んだ。
日が差しているのに雨が落ちてきた。
「あら、雨だわ。また泣いた人がいるのね」
健太の答えも聞かずに女は天を仰ぎ、手のひらに雨粒を止めた。
健太は雨具を用意しなかったなと思った。
「毎日のように雨が降るわ。ぼうや、濡れるわよ。いらっしゃい」
女は長いコートの前を開け手招きをした。
「六年生? そう、小柄な方でしょ」
女のコートに健太の体がすっぽりと包まれた。母の匂いと似ているが、やっぱり違う匂いだと思った。鼓動が間近に聞こえる。
「雨はすぐにやむわ。でもまたすぐ降り出す。いつものことよ」
健太は密かに深く呼吸をした。めまいのように体が揺れ、不思議な感覚に捕らわれた。しばらくこのまま居たいと思った。
「雨がやんだわ。気をつけて行きなさいね」
「ありがとうございました」
「寂しいわね。さっきの人も一人だったわ」
「……」
獣道にも右側通行と交通標識がある。
「もうちょっと大きくなってからにしたら」
両親も姉も言ったけれど、今が旅に出るチャンスだったのさ。健太は少し大人になった気分になった。胸を張り大股で歩き出す。
足元の水溜りに『右』の字が見えた。
健太は海底に引き込まれながら、両親に連れられて行った運動公園を思い出していた。
川の堤防に隣接していた運動公園には、大きな体育館とテニスコート。野球場とサッカー場。芝生の山があって、姉と二人でダンボールに尻を乗せて滑り下りたっけ。今自分の下りているスピードは、あんな勢いはない。
ゆるゆるゆらゆらふわりと下りて行く。
健太は右を見た。右は高い岩に遮られている。左は海草の林。色とりどりの魚が泳ぎまわっている。下りながら体が何回転かしてしまったらしい。頭がどっち方向を向いているのか分からない。
健太の周りを魚たちが取り巻いた。白い泡を立てて冷やかす。小エビが健太の髪に入り込み「今夜の宿にするか」なんて言う。
「ねぇ、泳ぎ方知らないの?」
柔らかな声がした。女の子だ。いや、女性って言った方がいいのかもしれない。超薄手の布が体にまとわり付いて、波に任せて揺らめいている。
「あの、僕、泳いだことはないのです」
「怖がらなくても泳げるはずよ。君はどっちへ行くつもり?」
「たぶん右。僕、行かなくちゃあならないんです。いつまでも子供でいる訳にはいかないから旅に出たんだ」
海草の林を抜けると、健太の手を引いていた女性がマンタを呼んだ。
「この子を案内してね」
マンタの背に乗った健太は、次々に移り行く風景に見とれた。テレビの画面で観た海の中が、今手の届くところに展開している。
浅瀬に近づいてきた。
「この辺で俺は失礼するよ」
マンタは体をくねらせて健太を振り離した。
健太は海中に漂いながら、行き先はきっと空の上に違いないと思った。
鳥たちが狩にやって来た。大群だ。
目の前に大型の鳥が突っ込んできた。群れて移動している小魚をくわえると、海岸の岩の巣へ運んでいく。
次に飛び込んできた鳥の足を捕まえた。
「僕、泳げない……」
「何すんだよ。おぼれちゃうじゃないか」
「僕だっておぼれちゃう」
「お前、おぼれない装置を身に着けているんじゃないか。気がつかないのかい」
「お願いだから連れていってよ」
「俺は子育てで忙しいんだ」
「頼みます。お願いします」
「分かった。ちょっとだけ便宜はかるよ」
水中から飛び上がった鳥は、近くにあった低い雲に健太を降ろすと「忙しいんだ」と言って、また海に突っ込んで行った。
雲の上から下を見ると、海岸線に沿った街からビートの効いた曲が流れていて、金髪や赤や紫の髪をした若者たちが踊っている。ガングロの少女たちも踊っている。健太は、見よう見真似で手足を動かし腰を振った。
雲が湧き上がる。真っ白な雲。健太が飛び移ると次々に連なっていく。
海は遠くなり、街の赤い屋根も見えなくなった。若者たちのざわめきも聞こえない。
「僕の行くところは何処だろう」
健太は思わず呟いていた。
「こっちよ、こっち。健太無事に着いたね」
母方の祖父母だ。ちっとも変わらない笑顔で迎えてくれた。父方の祖父もいる。伯父たちも従兄弟もいる。みんな元気な笑顔だ。
歓迎の音楽が鳴り出し、ご馳走が並び、虹色のライトが健太を照らし出した。
著書「風に乗って」収録作品★「健太が行く」
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