紫陽花記

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泥中の花

2019-07-26 05:45:44 | 野榛(ぬはり)エッセー集



泥中の花

            1996/8ぬはり短歌会誌上掲載

 二年前私は病院にいた。と言っても障害者の長男の付き添いで泊まり込んでいたのだ。糖尿病という病名と、命の保証は出来ないほどの症状だと説明を受け驚いた。そのまま、全面介助の必要な息子に付き添っていた。

 一日十回もの採血。極端に少ない食事制限に、当の息子より悲しくなった。

 浅い眠りを続けるベッドの側で、最初の一週間は緊張のしどおしだった。だが、日増しに元気を取り戻すのを見ながら、私自身にも心の余裕が出来た。

 糖尿病の入院は、症状の回復を図るのは勿論だが、もうひとつは本人と家族の教育の期間でもあるらしい。私は早速売店で糖尿病の本を買い込んだ。

 病院と言うところは二十四時間動いている。真夜中、患者の押すブザーの音が鳴り響く。看護士が走る。それに眠りを破られたのか息子が「オシッコ」と合図する。眠っている同室の患者さんに迷惑にならないように介助をするのだが、シーツの擦れる音さえ耳に障る。夜と朝の少しの合間に私は眠った。

 思い返せば長男出産後、連続してこのような状況の中にいた。それは筆舌に表すには長くきついことだ。だがその様な中にどっぷりと浸かりながら数々の楽しみを味わってきた。それは絵であり文章でありダンスでもある。洋裁をし、そして短歌が増えた。私は原稿用紙を取り出した。

 泥の中沈みてたのしどろのなかそれなりに咲く花もあるらし
                     米岡元子

 これは短歌の善し悪しに関わらず気に入っている。まさしくどんな環境の中にも花は咲く。大都会のコンクリートのちょっとした吹きだまりの砂にも、根を張り小さな花を咲かせる草もある。逞しく環境に順応し命を育む術は、生きるもの総てに与えられた最大の守りの本能だろう。

 私が『宝』として長男を見るまでの時間は長かったが、その間に環境整備に力を注ぎ、自分らしく生きることに拘った。

 天は誰にでも平等に光を注ぐ。柔軟に素直に自然体で生きることを第一としてきた。無理をせずその場その場の状況の中にも、楽しみを見つけるほどの心の余裕を持ちたい。

 息子の病状が落ち着くに従って、自分の時間を持てるようになった。

 退院までの三十四日間は、十八年間の喫茶店主として過ごしてきた中で、最長の休暇だった。息子の生死の狭間に揺れた時間。改めて自分の生き様を振り返ってみた時間でもあった。
 様々な人々の行き交った病院の中で、人の心の弱さと強さを見た。えてして環境、状況の悪いポジションにいる人ほど強く、その反対の人は弱く見えた。その中で、息子の隣のベッドに入院していた若者が忘れられない。

 その若者の右腕が左腕の半分しかなかった。手は小さく何かをする時、左手に添えることもままならないようだ。若者は、我が息子を自分よりも重い障害と見て取ったらしく、親しみを込めて話し掛けてきた。自分の障害のこと。また、頸椎の異常で、今まで使えていた左手が使えなくなっている現在を語った。

「使えなくなって初めて不自由を感じるものなんですね」と言った。使えなかった右手の不自由は、未だ感じないと言う。若者は話し続けた。やっと理解者を得たという心の内を垣間見せながら。「自分の体が他の人と違うと気づいた時が一番苦しかった」と言った。
 若者はそれから一週間後退院して行った。

 若者の置かれた背景の中にも、いっぱいに咲いている花を感じた。