ゴミのポイ捨て、不法投棄・・・これは、その人の意識の問題。
例えば、車からたばこの吸い殻をぽいっと捨てる人は、
・自分の視界から、ゴミが消えればいい
・世界はゴミ箱
であって、
〇誰かがその自分のゴミを片づけることになる
〇別に、世の中が汚くてもいい
〇何も考えていない
という意識かな?と推測できます。
洗濯機を捨てる人は、
・ゴミ処理場に持って行くのが億劫(または、処理場ではお金がかかる)
から、山の中や人目につかないところに捨てる
(ここなら、困る人が少ないだろう、ということは一応考えているか?)
〇税金を使って、行政が手配し片づける
(自分のお金をつかず、人のお金を使う)
〇人目につかないところだからあまり迷惑がかからないだろう
〇自分の管轄外は、ゴミが捨てられていても、どう汚れていてもいい
のだろうと思います。
太田和つつじの丘の駐車場がずっと閉鎖されていたのは、車が数台捨てられていて、市税をかなり使ったから・・・が根源でした。
意識の問題となると、百人百様です。
せめて、人に迷惑をかけないように想いがめぐらせてくれればいいのになぁ~と思うのですが、そこまで意識が広がっていないのに対して腹を立てる気持ちが、最近は起こらなくなっています。
上から目線っぽいかなぁ・・・。
でも、しょうがないよね、そう生きてきたのだから・・・と思ってしまうのです。
自分にできることは、
〇自分だったらどうする?と、ケース材料にする (反面教師化がほとんど?)
〇むかついたら、むかついた感情を感じ、その感情とさよならする(かなりマニアックな、自己浄化作戦の1つ)
〇片づけられるときは、片づける
などでしょうか。
長坂の沢山池の里山の入り口付近をこれから田んぼにする予定で、業者さんが入り、笹や木を切りました。
その後、里山協議会や里山ボランティアメンバーで、耕運機を入れる前の手作業のゴミ処理をしました。
沢山池は、昭和50年ごろから平成の初めごろまで釣堀でした。
その頃、現在の里山入り口は、田んぼをやめた後の状態だったと思われます。
・ワンパックのお酒のガラス
・栄養ドリンクのビン
・コーヒーなどのカン
・お弁当の飾りの緑のギザギザ『バラン』
・手回し脱水の洗濯機
・釣り餌づくりの袋と、その袋を開けた後のビニールの切れ端
・スーパーの袋
などが、もうそれはそれはうんざりすほど出てきました。
鍬でひっくり返し手で拾うという作業で、みな、腰が痛くなっていました。
金物やビンは、耕運機をダメにしてしまうので、必ず見つけなければ・・・の勢いです。
20~40数年後にそれを拾っているわたしたちのことなどに、想いを巡らせなかっただろうなぁと思ったのでした。
そしてこうやって、大変な思いをしたわたしたちは、「ゴミのポイ捨ては自分は絶対にしない!」と思われます。
数日前の神奈川新聞に、
衣笠小学校の6年生の衣笠十字路地下道の貼り絵の話題が載っていました。
前回作った貼り絵は、1ヶ月で心ない人が破ってしまったそうです。
そして、再度作り直しました。
子どもたちはがっかりしたことでしょう。
そこに至るまで、子どもたちの心にはどんな想いがわいたのか。
きっとこの子たちは、
公共のものを大切にする心が育ったことでしょう。
イヤなことがあってもそれは今後の糧になる、そんなことを学んだとしたら、すごい
生きた道徳です。
公共心がわくかどうか?
これは家庭のしつけや学校の中で、また、様々な機会に学んだかどうか?にかかってきているのでしょう。
その機会がなかった人が、公共の心を考えない大人となっているだけ。
そう思うと、やはり家庭・社会の影響が大きいと思うのでした。
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1ヶ月ほど前、田んぼから数メートル離れたところに、何塊かのカエル卵を避難させました。
その卵もオタマジャクシになっていました。
NPO三浦半島生物多様性保全の天白さんにうかがうと、
「6月ごろにカエルになります」
と話していました。
明後日の自然観察会は、カエルの卵の観察ではなく、「オタマジャクシの観察」になりそうです。
今日も雨。
沢山池はふだんは枯れていますが、ここ数日ですっかり池です。