大きいですよ。^^
最近、前後になんの共通性もないのに、感情が表れることがあります。
例えば、義父の部屋を掃除している時に、義母の写真を見上げると、今なら、もっと義母と仲良くできたんじゃないだろうか・・? とか。
ふっとそんなことが湧き上がってきます。
この度の震災では多くの限りない命が失われてしまいました。
誰しも、亡くなるときは、我が家で、布団の上で・・と願うものです。
それが、どんな思いで流され・・・
逝ってしまったのか・と。
宗教でも、今生きているこの時を幸せであるようにと信仰します。
本気で信じている人、イワシの頭も信心から・という人もいるでしょう。
一生懸命信心し、成仏を願っていた人が今回のことに関わらず、不慮の事故であれ、災害であれ、病気であれ、人は必ず死んでいくものです。
その最期が、自分の望むとおりではないのが、多いでしょうね・・・
そしてそのとき、あんなに信仰していたのに・・・あんなに行動を起こしていたのに。という疑いの言葉が出てきます。
それは真剣に信仰している者にも起こる感情です。
生きている方たちには、「亡くなった人たちの分まで、生きよう。」「生きている私たちには使命がある。」などと言い聞かせ。
じゃあ、亡くなった方たちには、使命や、生きる価値が無くなったのか?
そんなことは無い。
生き残った人たちのほうが辛い・・苦しい・・・
いっそ、あの時に、一緒にとどれだけ思うことか。
でも、亡くなった人たちは、もう二度と、愛する妻や夫を、娘・息子・孫たちを見ることも、抱くこともできない。
どんなに、苦しくても、ほんの小さな幸せも、生きているからこそ感じ、味わえることだと思う。
きっと、先にこの世から居なくなった方たちは、次に生まれる時期を心得ていったのだと思います。
死んでもなお価値のある存在だとは思えるのです。
人は誰人であれ、価値ある存在だと思います。
そして自分が居る限り、母と父に感謝し、よりよく生きて生きて生ききっていかなくてはならないと思っています。
ここでの生活も、時が流れ、次第に環境が変わり、良いも悪いも、自分が作っていくものだと思いました。
子の悩みが親の悩みになり、親の悩みは子の悩みにしてはいけないと思いつつも、家族であれば、受け止めるものなんだと。
今年、52才。
母のこの年はどんなだったろう・・かと思い出すこともあります。
父のこの年は、どんな事を考えて生きていたのだろうか・・・と。
ここへ来て、20年が過ぎました。
あのころの義父母は、どんな思いだったのだろうか・・と。
でも、好きかと問われれば、それはまた別問題ですが・・・・・・・・
そんなことを心の片隅において、義父のことも、主人のことも、先々の未来のために、心地よくしていきたいと思っています。