記憶は、だんだん消えていく。
ということ。
「見えなくても、聞こえなくても、心の中にいるがじゃ。」
いろんなこと、感じ、いろんなこと、思いながら、仁の最終回を見ました。
作り物です。人が演じたものです。
結果のある物語です。
それでも、そうか。そうだったか、そうきたかと思いながら充実して見終わりました。
人はどんなちっさな人でも、社会に貢献などできていないと思うようでも。
大きな歴史に参加していなくても。
名をこの世に残せなくとも、いつか・・・誰にも忘れ去られる人生であっても。
過去にどれだけの偶然という縁でつむがれた命の結果に自分が居るのかを思うと、これから先の未来も、子や孫に繰り返される流れがどれだけ貴重なのかと感じる。
大きな時代の中では、米粒以下の存在かもしれない、地球から見たって、そう。
でも、私一人としたって、現実に今生きている。息子の誕生日を忘れるドアホであっても、息子たちの存在が幸せの集まり。
ここで、泣き・笑い・怒り・我慢していることで、未来をつむいでいることになると思う。
人生はさまざまで。
病に苦しんでいる人、生まれながらに苦悩と戦っている人、お金に、配偶者に苦しめられて、自分の命を落とそうとする人もある。
それでも、どんな思いで母が産み落としたのかは、自分が子を産んで分かったつもり。
そして、腕の中で泣くわが子を愛しい愛しいと乳を含ませ、抱いて抱えて寝ずに育てた日数。
赤ん坊はやがて、言葉を発し、自分の足で歩き出す。
母親はずっと母親で、ちょっとした泣き笑いにも心がひやひやする。
それでも、子等は、もうすでに自分の人生を歩んでいる。
命、ある限り。
生かされているなどと思わず、自分は自分のために、自分の命を全うすべく、生きていると思って欲しい。
不本意にも自分の意識の無いままに、志半ばでも、命を落とす人の無念さは、いつどこで晴れるのか、答えはまだ得られませんが、
忘れないこと・・・・
私は、私に縁してくださった方々を知人・友人・縁者を忘れずにいる。
見えなくなっても、声は聞こえないけれど、今私がここにいることは、過去の多くの縁によって在るのだから。
寄せ植えも、またバラが咲き出しました。