問題5 駆除により健康被害の責任如何の問題です。
法令の駆除基準がある場合の裁判例(平成24年7月2日宮崎地判・判例時報2165号128頁)を取り上げますが、判決が取り上げた双方の主張立証からすれば(それが問題になりますが)、標準的な判断ではないかと思います。
舞台は宮崎県の日向灘に面する一ツ葉海岸松林で、松食い虫防除の薬剤空中散布が問題となった行為、散布により健康被害を受けたと主張したのは近隣住民です。
一ツ葉海岸松林は、江戸時代に潮害対策等で植林され、10km以上の砂丘海岸に沿って続広大な松林となっていて、見事な景観美となっています。その一画にある阿波岐原(あわきがわら)は、記紀の世界では黄泉国から帰ってきたイザナギが同名の地で禊祓いをして、アマテラスやツクヨミ、スサノオを誕生させたとされています。ま、日本を創造した神様の誕生の地ということで、なんともめでたい場所となっています(といっても具体的な場所は定説がないようですが)。
ところが、松原は松食い虫にやられた結果、ほっそりしたものが多く、健康的とはいえません。そこで宮崎県は、森林病害虫等防除法に基づき、松食い虫駆除のための薬剤空中散布を毎年実施してきました。
原告となったAさんは、平成13年広島県から転居して一時期を除き継続して松原の近くに住宅を構えて居住してきましたが、この薬剤散布により化学物質過敏症その他の健康被害を受けたと主張して、平成22年県を相手に国賠訴訟を提起したのです。
争点の概要は、①空中散布の違法性については、防除実施基準に違反するかどうか、②Aさんの健康被害と空中散布との間に相当因果関係があるかという点が問題となりました。
駆除を含めた防除実施基準は、上記の法で国(農水大臣)が定めるものと、知事(本件では宮崎県知事)が定めるものとがあり、それぞれの基準適合性について双方の主張は対立していましたが、判決は②の争点について否定的判断をして①については判断しませんでした。
ですが、あえて私なりに争点①について触れてみたいと思います。
防除実施基準は、ア)対象森林の基準、イ)周辺の自然・生活環境の保全、ウ)農業漁業への被害防止措置、エ)薬剤防除に関する事項があります。
で、ア)の対象森林については、防除実施基準では「家屋等の周辺の森林以外の森林」(例外規定あり)となっていますが、散布区域がA宅から75mしか離れていませんでした。空中散布の場合、75mは一般的な解釈としては周辺の森林とみるべきではないかと思います。しかもAさんは体調不調を訴えていたのですから、例外規定には当たらないと思います。これに対し県は、東側が海で、西には対象とならない防風林があるとか、低濃度の薬剤使用、風向き、風速等を注意するので、上記の森林に当たらず、問題ないと主張していますが、これだけだと、この点は松林保全を過度に優先し、安全配慮を軽視したものとの疑義を生みます。その他の問題は省略します。
次に、判決が否定した健康被害への因果関係ですが、判示事実によると妥当な判断ではないかと思います。
判決は、Aさんが転居前から耳鳴り、めまいなどで脳神経外科の診療を受けていたこと、平成19年、21年、22年に、同様のめまい、ふらつき、のほかに、多様な症状を訴えていたことに加え、家庭の事情も不安要因であることが指摘されていること、他方で本件薬剤のフェニトロチオンの急性毒性が低いことや体内での長期残留性ないこと、大気中の濃度として気中濃度評価値が設定されているが、散布区域内やA宅前で測定した気中濃度は当該設定値よりも大きく下回っていたこと、他の近隣住民から被害の報告がないこと、化学物質過敏症については定まった知見ないことを指摘して、因果関係を否定しています。
たしかに判決の判断は多くが合理的なものと共感すると思います。ただ、もし広島県在住の時、すでになんらかの要因で化学物質過敏症に罹患していた、あるいは体が汚染されていたとすると、いかに低濃度で残留性が低い薬剤であっても、影響を受けうることは多くの化学物質過敏症の患者の訴えから無視できないと思います。むろん近隣住民から健康被害の訴えがないことは十分な反証にはならない場合があると思います。
私自身は化学物質過敏症ではないと思っていますが、都会のさまざまな異臭に過敏に反応するようになりました。空気のきれいな田舎に住み、なんとも気持ちのいい毎日を送っていたのですが、近隣が定期的に行っているGAPで指定されている農薬散布や、刈払機・バイクからの排出ガスの臭いで相当影響を受けることがあります。いずれも最近は低濃度になっているのですが、地域で慣れ親しんだ人がもつ抵抗力といったものはなかなか順応することが容易でないと考えています。これは都会居住に慣れた人が田舎に移る場合の一つの注意事項ではないかと思います。
その点、本件ではAさん自身、転居の際、農薬散布といった定期的に実施している実情を知って、できるだけ松林から離れた位置に住居を構え、住宅の構造に配慮したり、散布期間中は逃避するなど、いくつか被害回避の方法をとっておく必要があったかもしれません。
化学物質過敏症は、より本質的な問題は、多種の特定できない大量の化学物質汚染によって発症するという点ではないかと思います。その意味で、特定の化学物質だけに着目する判断では限界があります。ただ、私が担当した東京都杉並不燃物中継所事件で、公調委の原因裁定は、原因物質を特定せず、また、閾値を超える濃度であったかを問わず、因果関係を認めています。今後このような科学的な議論が深まるといいのですが。