たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人の死とそのあり方

2016-10-30 | 人の生と死、生き方

161030 人の死とそのあり方

 

今朝は3時間余りかけて竹林の整除という名で竹を数十本切り倒しました。一本切ると、8~10mの長さなので3つ切りくらいにさらに切って持ち運びやすくします。チェーンソーで切れば簡単ですが、エネルギー消費、振動、臭い、いろいろな理由で、あくまでノコギリを使うので、初めは寒さを感じますが、すぐにぽかぽかになります。

 

これも竹の生命とかかわるのかもしれませんが、竹は切れば切るほど翌年には勢いよくタケノコが生え、あっという間に頭上高く伸びます。とても生命力があるんですね。竹を切ることはその命を断ち切ることではないのですね。

 

今回の竹の伐倒は、スズメバチの巣の周辺を見渡せるようにするためで、ほんとは1m間隔に竹が残るようにしたいのですが、なかなかはかどりません。見上げると、一本の竹の上の方にハチの巣がかかっている。どうも巣にはハチがいないよう。彼らも命を連綿と伝えようと頑張っているのでしょうね。

 

ところで、今朝竹林に出かける前、BSNHK1の世界のニュースをちらっと見たら、段ボール製の棺桶がエコロジーと経済性から提案されているとのこと。オークで作られたと思われる立派な棺桶を並べて、それに比べると価格もかなり安いので、どうせ埋葬ないし焼いてしまうのなら、この提案も悪くないかも。その後、いくつかのさらなるアイデアが放映されていたのですが、竹林作業をしているうちに忘れてしまいました。覚えているのはスウェーデンの冷凍後に焼却して粉状にする案、どこだったか骨粉をお墓に埋められる方式、などいろいろな方式が上がっていました。

 

遺体の処理というと、なんとも礼節のない表現ですが、ある種の宗教観とか歴史的な慣行とか、それぞれが保有している考え方は尊重されるべきと考えますが、他方で、そのような縛りというか観念が絶対的なものか、見直してもいいのではないかと思うのです。親鸞が自分は鴨川に捨ててくれと遺言したとか言われますが、彼が育ったころの鴨川は遺体放置場、いや死期が迫った病人が持ち込まれていたことを親鸞自身が体験していたとも言われています。親鸞の一途に生きる姿勢を垣間見るとそれも当然かなと思ったりします。浄土真宗ではいまなお、お墓をもたない信徒もいます。

 

私自身、そんな考え方もあり、四半世紀前に、自然保護と生命の循環という観念で、仲間と一緒に、自然葬という名の散骨を新たに推進することを含め、埋葬方式に限られない葬送の在り方を求め、葬送の自由をすすめる会を立ち上げ、首都圏にいるころ、ずっと活動に参加してきました。

 

こういった遺体の処理については、墓地埋葬法が戦前の法令をほぼ継承し、現在に至っています。葬式自体は、宗教儀式そのものと戦後観念されたのか、憲法の精神からか法律の対象となっていません。その点では、葬式はやるかどうかや、その方式は個人の自由です。では亡くなった後、火葬場での焼却は義務なのでしょうか。それは地域慣行を尊重して、地域により異なります。といっても埋葬を認めている自治体はごく限られ、都市域を含めほとんどは焼骨の埋蔵しか認めていません。というわけで、亡くなると、火葬場で焼却されることになります。その焼却の在り方は特段、法規制の対象となっていません。火葬場自体は、大気汚染防止の観点から規制はありますが。ところが、わが国では、おそらく火葬が広がった大正期から戦後初期までに、骨拾いという慣行が定着し、焼却方法もできるだけ骨の形が残る温度調節や焼却施設が技術的にも発展していったのではないかと思います。

 

ちょっと話が飛びますが、92年ころだったと思いますが、ロンドン市営墓地を訪ねて、その散骨実態を見聞したことがあります。下手な英語にもかかわらず、イギリス紳士の担当者は懇切丁寧に案内・説明してくれました。火葬場の焼却施設を案内してもらい、その焼却はできるだけ灰状になるよう高温にしているとのこと。火葬施設は、礼拝場と直結していて、礼拝が終わると参列者はもちろん遺族もさっと帰ります。イギリスは、火葬を取り入れるまでにキリスト教(プロテスタントが中心)に反するということで大変だったようですが、火葬導入後は骨には多くが関心を抱かなくなったようです。それで、骨壺もなんとも簡易なプラスチック製。それより骨灰を取りに来ない人も少なくないそうです。

 

そして散骨も、芝生に撒くことが多く(なお、スウェーデンでは世界遺産の「森の墓地」で撒いている様子をNHK映像で見ましたがとても敬虔さを感じました)、あるいは墓地内のローズガーデンでは自分のプレートのところに撒く方式もあります。撒く場所は、とくに制限はなく、テームズ川でも撒けるそうです。その他中小河川で撒く例が放映されたのをその後見たことがあります。ところで、骨灰の引き取りは、法令で任意となっているのですが、そのためか、かえって引き取らない人が多いのかもしれません。

 

別の話をするつもりがかなり脱線し、少々疲れがでてきたので、この話は別の機会に整理してやってみたいと思います。